愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2020.03.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
1534年、織田信秀の嫡男として、勝幡城で誕生。
こちらは、城の南端あたりだったと言われる日光川沿いにある碑。
1枚目は城跡北側にある碑。2枚目は勝幡駅にある復元模型。
勝幡城跡(北側の石碑)
所在地:愛知県稲沢市平和町城之内105
信秀が那古野城を奪い、その後古渡城へ移ると信長が那古野城の主に。
この那古野城、現在の名古屋城二の丸あたりにあったとのことです。
那古野城跡(名古屋城二の丸)
所在地:愛知県名古屋市中区二の丸1
年代は不明ながらも、幼少時の信長が手習いをしたと伝えられているのがこの凌雲寺。
伯父である津田信光が城主をつとめていた稲葉地城のお隣にあります。
稲葉地城跡
所在地:愛知県名古屋市中村区城屋敷町4丁目10−1
1546年に古渡城にて元服、13歳にして成人となったということですね。
現在この地は東別院となっており、城の遺構は残っておりません。
古渡城跡
所在地:愛知県名古屋市中区橘2丁目8
元服後の1547年、今川方との吉良大浜の戦いにて初陣を飾り、
1549年頃には斎藤氏との和睦の証として、濃姫と結婚。
1551年に信秀が死去すると、家督を継ぎます。
しかし、家督相続したからといって決して安泰ではありませんでした。
まずは、1552年5月。信秀に従っていた鳴海城主の山口教継が今川方へ寝返り。
鳴海城近くの赤塚にて小規模な戦を起こしました(赤塚の戦い)。
続く1552年9月には、主家である清洲織田家とも争いに(萱津の戦い)。
この戦には勝利しますが、織田家同士の長い闘いがここから始まります。
鳴海城跡(天神社)
所在地:愛知県名古屋市緑区鳴海町矢切127−1
1553年は、信長にとってのターニングポイントの一つといえるでしょう。
2月、傅役を務め、家老として信長を支えた平手政秀が自刃。
信長の奇行を諌めるため、不和となり信長を恨んで、などの説があります。
4月、濃姫の父である道三からの申し入れにより、聖徳寺で会見。
「大うつけ」と言われ、敵の多かった信長の品定めをしに来たと言われています。
聖徳寺跡
所在地:愛知県一宮市冨田大堀
其の一は、信長の母・土田御前と吉法師と呼ばれていた頃の幼き信長像。
勝幡駅にある赤ん坊時の像に次いで若い信長像です。
其の二は、平手政秀邸跡。政秀は、信長に振り回された苦労人のイメージですね。
果たして、命をかけて主君を諌めたのか、不仲になった末の自刃だったのか。
土田御前誕生の地
所在地:岐阜県可児市土田4727
平手政秀宅跡(志賀公園内)
所在地:愛知県名古屋市北区平手町2丁目
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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