愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2021.10.29
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
桶狭間の戦い後、岡崎城を取り戻し我がものとした元康。
これに続いて、親今川の立場だった吉良氏への攻撃を開始します。
しかし、西尾城主・吉良義昭の入った東条城をなかなか落とせず大苦戦。
勝利を収めたものの、松平好景など多くの家臣を失う手痛い戦いとなりました。
上の写真は西尾城、下の写真は東条城(2013年頃撮影)。
これを期に今川氏と決別した元康は、織田信長と急接近。
1562年に元康が清洲城に訪れ、世に言う清洲同盟が締結されました。
西尾城跡
所在地:愛知県西尾市錦城町231
東条城跡
所在地:愛知県西尾市吉良町駮馬城山45
明けて1563年、元康は家康へと改名。心機一転を図りますが、
すぐ後に家康最初のピンチといえる三河一向一揆が勃発します。
本證寺の門徒を中心とし、吉良氏や今川氏、さらには門徒だった部下も敵に。
家康はこの一揆鎮圧までに、およそ半年もの歳月を費やすこととなりました。
本證寺
所在地:愛知県安城市野寺町野寺26
土塁跡から戦う城であったことがわかる「本證寺」の記事はこちら
三河一向一揆を鎮めた後、徳川家康は東三河や奥三河へ侵攻を開始。
1566年頃、吉田城や牛久保城を攻略し、三河国の統一を果たします。
同年、松平から徳川へ改姓。後の「徳川家康」がここに誕生しました。
吉田城跡(豊橋公園)
所在地:愛知県豊橋市今橋町3
三河を統一した家康は、次の狙いを遠江国の今川領に定めます。
まずは、武田氏と一時的に同盟した後、曳馬城を制圧。
その後、今川氏真のいた掛川城を攻め、氏真は籠城戦の末降伏します。
かつての主君・今川氏を滅ぼし、自領を増やしていく徳川家康ですが
束の間の同盟も崩れた武田氏とは、この後敵対関係となってしまいます。
曳馬城跡(元城町東照宮)
所在地:静岡県浜松市中区元城町111−2
掛川城
所在地:静岡県掛川市掛川1138−24
其の一は、吉良氏との戦が行われた鎧ケ淵古戦場跡。
吉良義央が築いた堤防にちなみ、現在は黄金堤と呼ばれております。
其の二は、名門・今川氏のルーツである今川氏発祥の地碑。
戦国大名としての今川氏は、氏真の代で幕を引く形となりました。
鎧ケ淵古戦場跡(黄金堤)
所在地:愛知県西尾市吉良町岡山鎧
今川氏発祥の地
所在地:愛知県西尾市今川町土井堀17
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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