武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2019年6月18日記事のため内容が古い可能性があります。

関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・2

2019.06.18

前回に続き、島津の退き口の史跡をご紹介します。
関ヶ原合戦で、小早川秀秋が東軍に寝返り西軍が壊滅状態となります。

背後にいた宇喜多秀家、小西行長、石田三成らは敗走。
東軍の中に孤立してしまった島津軍がとった行動は、敵の中を駆け抜ける敵中突破です。

あまりの気迫に東軍の福島正則隊が追いかけるのをやめたという逸話もありますが、家康の命令で本多忠勝、井伊直政、松平忠吉が追走します。
山道が多い伊勢街道へ逃げた島津軍を追走する井伊直政ら。

もうひとつの関ヶ原合戦とも言える激戦を繰り広げた、クライマックスとなる史跡をご紹介します。

勝地峠

勝地峠は島津軍と追撃軍の松平忠吉と井伊直政軍が激しくぶつかった場所です。

井伊直政も松平忠吉は約1年半後、松平忠吉はその約5年後にこの時にできた傷が元で死亡したと言われています。勝地峠は伊勢西街道最大の難所と呼ばれ、標高183mの山越えです。荷物を運ぶ馬が使えず、歩(かち)で荷物を運んだことから「歩路(かちじ)」と呼ばれていました。

険しい山道ではありますが、関西方面への近道として商人や軍用道として使われていたそうです。

天正11年(1583)秀吉は、賤ヶ岳合戦を前に、反秀吉派の滝川一益を攻める「北勢攻め」を行います。この時に勝地峠を使い、見事勝利し、「歩路」を「勝路」に変えたという話もあります。

豊久軍はこの山麓で最後の捨てがまりを行います。

激しい猛攻の末、家臣の柏木源藤は追撃する井伊直政を落馬させ、忠吉は頭に傷を負うほど両軍とも激しくダメージを負うことになります。

あまりに負傷者多さと、家康による狙撃中止の命令が下り東軍の追撃が終了。
豊久は残兵の助けを借りながら峠を越えることができました。

白拍子谷(しらべしたに)

白拍子谷は、勝地峠から15キロほど離れたところにあります。

負傷した豊久はここまで歩いてきたようです。時刻的には夜になり、当時は雨が降っていたようです。

体温も低下し衰弱に追い打ちをかけるような状況になってしまったのでしょう。豊久は足手まといになることを懸念し、ここで自刃しました。今は集落の南側を流れる川の対岸に、小さな標柱が建つのみです。

瑠璃光寺

白拍子谷の近くにある薬師寺(現・瑠璃光寺)に亡骸を家臣の三輪内助入道一斉が遺骨を納めて菩提寺にし、位牌が安置されています。寺の梵鐘にはその経緯が刻まれているそうです。寺近くにある森に、島津塚と呼ばれる豊久の五輪塔があります。

その後、島津義弘隊は途中で出会った織田秀信家臣の小林新六郎の案内で先を進みます。険しい山道を登って、五僧峠(時・保月)を越え近江へ向かいます。この五僧峠を島津隊が越えたことから、島津越えと呼ばれています。

主に関ヶ原から現在の上石津町までの島津の退き口史跡をご紹介しました。
薩摩まではまだまだ長い道のりがありますが、おそらく一番の難所は東軍の追撃の激しいこのあたりではないでしょうか。

その後は裏道(険しい山道)を選択し、命からがら摂津住吉にいた妻を救出し、立花宗茂と合流し難波の港から薩摩に帰還します。生きて帰還できた家臣は80数名ほどと言われています。

ほんの一部をたどっただけですが、敗走の厳しさ、追手が迫る恐怖をイメージでき、島津越えの厳しさを想像できます。
回るには半日以上かかるので、関ヶ原の島津の陣跡から瑠璃光寺まで、退き口をたどってみてはいかがでしょうか。

勝地峠

大垣市上石津町下多良882

白拍子谷

大垣市上石津町上多良2045-1

瑠璃光寺・島津豊久の墓

大垣市上石津町上多良954-2

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北村美桂

岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。

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