名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.02 大天守 其の二
2025.02.23
2025.02.11
一、なんらかのマークが付けられた石を「刻印」や「刻紋」、
もしくは人物の名が入っているものを「刻銘」と呼びますが、
この連載では主に「刻印」という呼び方で統一します。
一、名古屋城には膨大な数の刻印があり、
確認されているだけで2000以上もあるのだとか。
劣化により判別不明なものも多いため、本連載では
目視ではっきりわかるものを中心にご紹介してゆきます。
一、タブレットにて刻印を白や赤の線でなぞった画像もありますが、
フリーハンドゆえのゆがみや想像で線を補ったものもあるため、
あくまでイメージとしてお楽しみください。
本丸御殿の横を通過し、まずは天守の下へ。
現在は耐震性不足のため内部へ入城できませんが、
やはり天守は真っ先に見に行きたいところ。
かつて入城口だった小天守横あたりから刻印探しを始めましょう。
写真の赤く塗ってある部分が、比較的わかりやすい刻印がある箇所。
正面が橋台(小天守と大天守をつなぐ部分)、右側が大天守南壁東側です。
エリアごとに番号を振り、まずは大天守南東側の①と②から。
①のエリアからは8の刻印をピックアップ。
刻印を白い線でなぞってみたのがこちらの写真です。
左上にある3つの刻印は、
・見たそのままの「三の字」
・上下逆になっていますが、山が二つの「違い山形」
・杉の木を模したといわれる「杉」
刻印は家臣たちの名と関連があるのではないかといわれておりますが、
「三」と「山」に関連する加藤清正の家臣は多数おり詳細は不明。
「杉」に関しては、椙村与次兵衛という人物と推測されております。
残りは、右上の初心者マークっぽいものが「矢筈(やはず)」、
右下が既出の「三」と以下の3つ。
・こちらも見たままの「十の字」
・丸が重なって二つある「違い輪」
・ロゴマークとしても秀逸な「軍配団扇」
続いて②。
左から「杉」、その隣が車輪の半分が描かれた「生駒車」、
下の二つが雁の両翼を結ぶような形の「結び雁金(かりがね)」。
このエリアの見どころは、なんといっても隅石(石垣の隅部)の刻印です。
一部欠けている上に陽が当たっていないとわかりづらいのですが、
「加藤肥後守 内 (左)衛門」と刻んであるそうな。
お次は、隅石を2つ。
隅石③は、大きな「鳥居」の刻印。詳細は次回にふれますが、
「鳥居」は加藤清正の家臣である新美八左衛門という人物が用いたもの。
隅石④にも加藤清正の家臣名が刻まれており、
こちらには「加藤肥後守 内 小野弥 兵衛」と「軍配団扇」の刻印が。
残念ながら石の表面がかなり剥離しており、
目視でわかるのは線でなぞった部位くらいだと思います。
小野弥〇兵衛(〇部分は詳細不明)については、
当時の家臣の名や禄高、役職などを記した名簿である
「分限帳(ぶんげんちょう)」にもその名が登場しないのだとか。
大事な大天守の隅石を任された人物ですが、謎多き人物といえるでしょう。
①にも登場した「軍配団扇」は、この小野弥〇兵衛の刻印です。
続いて、かつて入口だった小天守と大天守を結ぶ橋台の石垣。
陽が当たらない状態だとはっきりわかる刻印はあまりありませんが、
その中でも3つの刻印をご紹介したいと思います。
天守台との接合部あたりの⑤には、
・軍配団扇とは形が異なる「団扇(うちわ)」
・四角の中に四つの点がある「角に四つ星」
この二つ、特に「角に四つ星」は目視でもすぐわかるのでおススメ。
そして、橋台の刻印で最大の見どころが⑥。
小天守への階段下にひっそりと佇む石に、何やら刻まれております。
ひっくり返すとこんな感じ。
平仮名で「わた」と読め、恐らく「和田」という名だと推測されます。
「分限帳」によれば、加藤清正の家臣に「和田」という人物は2人おり、
この2人のどちらかが石垣普請に参加したのでしょう。
徳川家康の命により20もの大名が参加した名古屋城の石垣普請、
天守台を担当したのは城づくりの名人として知られる加藤清正。
担当したわけでもないのに「清正石」(下の写真)という巨石があったり、
巨石の上で音頭を取る姿の像があったりと、
名古屋城の内外には加藤清正の名がちらほらでてきます。
名古屋城築城に際し幕府により普請の担当箇所が割り当てられましたが、
加藤清正は立候補して大小の天守台と周辺を担当したのだとか。
自ら城の象徴である天守の石垣を請け負ったことに関しては、
・自らの築城技術に自信があったため
・徳川家康への忠誠をアピールするため
などが動機として考えられております。
1686年(貞享3年)頃完成した『武徳大成記』という書には、
普請に関する加藤清正と福島正則の会話エピソードがあり、
「家康ならまだしも、その子(九男の徳川義直)の城まで手伝うのか…」
と不満を漏らした福島正則に対し、加藤清正が
「嫌なら国に帰り、幕府に対し兵を挙げればよい」と言ったとか。
真偽はともかく、「もはや徳川家に逆らえない…」という風潮が強く、
加藤清正も「ならば技術を見せつけよう」という気持ちだったのかもしれません。
刻印探しの主な参考書は、名古屋城の石垣刻印を研究された高田祐吉先生の著書。
特に天守台石垣に関しては、『特別史蹟 名古屋城天守台石垣の刻紋』という
本が欠かせません。次回から大天守台東壁にとりかかりたいと思います。
加藤清正が石を調達したという篠島の矢穴石と加藤清正像
<名古屋城についてもっと詳しく>城を巡る 日本三名城の巻:名古屋城
名古屋城
場所:愛知県名古屋市中区本丸1−1
電車でのアクセス:地下鉄名城線「名古屋城駅」下車後徒歩約5分
車等でのアクセス:名古屋高速都心環状線「丸の内IC」から北方向へ約5分
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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