どこにいた家康 Vol.14 金ヶ崎城
2023.04.16
2023.04.09
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今週の『どうする家康』は一回お休み。
録画しているけどまだ見ていない…という方は、今のうちに追いつく機会かもしれません。
〇話を見逃した…という方は、一挙再放送もしているのでこの機会におさえておきましょう。
今回ご紹介する史跡は、若狭武田氏の家臣・粟屋勝久が城主を務めていた佐柿国吉城。
朝倉氏に攻められて主君・武田元明が捕縛、一乗谷へ連行されるという事態に陥るも、
粟屋勝久は若狭の地を渡すものかと、単独でこれに反抗してゆきます。
その後織田信長は粟屋勝久と協力関係を結び、朝倉攻めの際は佐柿国吉城に入城しました。
・国吉城 入口にあたる「居館正面虎口跡」
・国吉城 虎口の左手に広がる、石垣も残る「城主居館跡」
・国吉城 山上の城跡への入口と、山上へ至る長い階段
・国吉城 200メートルほど登ると左手には「二の丸跡」があります
見事な「土塁」と「喰違虎口」、敵方はこの堅固な守りに悩まされたことでしょう
・国吉城 まだ200メートルもあるのか…と思わされるありがたい案内
道中には崩落した石垣もあり、ここまでくればあと少しで山上です
織田信長が朝倉攻めの際に入城したといわれる佐柿国吉城ですが、
徳川家康はどうやらここではなく別の場所に着陣したようです。
ちなみに、地元の伝承には徳川家康と豊臣秀吉(当時は木下秀吉)が
佐柿国吉城の本丸にある大石で囲碁をした、というものがあるとか。
あくまで伝承ですが、何を話しながら囲碁をしたのか…と妄想するのも楽しいものです。
・国吉城 いよいよ山上あたりへ到着、写真右側が本丸跡方面
朝倉攻めより後の時代に積まれた「石垣」
城を壊す際に、石垣の上部を崩して下部を埋めるという処置がされたそうです
・国吉城 「本丸北側堀切」と、本丸跡方面を見上げる図
・国吉城 こちらが「本丸跡虎口」、そして囲碁をした…かもしれない「本丸跡」
・国吉城 本丸跡を下り逆方向へ行くと、素晴らしき「連郭曲輪群」があります
五段にわたる曲輪群、下りてから見上げるとその規模に圧倒されます
佐柿国吉城へ行く前日、織田信長一行は熊川の地で一泊。
この時、徳川家康は得法寺に宿泊し、翌朝出発時に松に腰掛けながら
「土地は熊川、寺は得法寺、余は徳川、因縁あるかな」
このように言ったという伝説が残っているそうです。
・得法寺 「山門」と「本堂」
・得法寺 松くい虫に侵され、2000年に伐採されてしまった「徳川家康腰掛の松」ですが、
山門の隣に根元がありますのでこちらもお見逃しなく
・得法寺 こちらが、もともと「徳川家康腰掛の松」があった場所です
一週はさんで、来週はいよいよ金ヶ崎の戦い。
浅井長政が反旗を翻し、徳川家康が異論を唱えてくる…
逆らう二人の「弟」に対する織田信長を、はたしてどう描くのでしょうか。
様々な思惑が渦巻く金ヶ崎の退き口、楽しみにしたいと思います。
佐柿国吉城
場所:福井県三方郡美浜町佐柿25-2
得法寺
場所:福井県三方上中郡若狭町熊川33−26
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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