どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.02.14
大河ドラマ『西郷どん』に登場する島津家。放映中だからこそ、薩摩藩に興味を持っている方も多いと思います。
今回は東海圏の方が気軽に行ける薩摩藩を感じられる「治水神社」をご紹介いたします。
こちらに祀られているのは、薩摩藩の老中・平田靱負で、厳しい木曽三川の三川分流工事の責任者。
水害に悩むこの地域の人たちは彼に救われたと感謝していて、神社だけでなく堤防の桜並木の名前が「平田靱負ロード」という程。
島津藩がクローズアップされている今こそ、治水神社もお参りしてみてはいかがでしょうか。
薩摩藩のお手伝い普請は、宝暦年間(1751年から1764年/江戸時代・将軍は9代将軍の徳川家重)に行われ「宝暦治水」と呼ばれています。
ウィキペディア「宝暦治水事件」によると以下のように説明されています。
幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した
木曽川・長良川・揖斐川の三川を分流する工事で、薩摩藩に巨額の資金と人数を負担させる普請でした。
あまりの不当で嫌がらせとも取れる普請に、薩摩藩では「一戦交えるべき」という強硬論も上がっていたそうです。
この3つの川は複雑に合流して、雨が降ると分流してしまい川の流れが変わってしまう地形。
しかも小領が分立していたので各領主の利害が対立して協力して治水対策が取れなかったこと、美濃国側では尾張藩の御囲堤よりも3尺以上低い堤しか作ってはいけないという伝承があるなど、難航を極める条件ばかりでした。
なかなか上手く進まない治水工事に薩摩藩では多くの人が亡くなり、平田靱負自身も自害するという壮絶な工事でした。
この犠牲の上に、下流側の多くの村は水害の難から逃れられるようになり、明治時代に入ってからはヨハニス・デ・レーケによって本格的な治水工事が行われたとのことです。
薩摩藩のこの功績は知られていなかったようで、三重県多度に住む西田喜兵衛が世間に広めたそうです。
そして明治33年「宝暦治水之碑」を、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立させたということです。
さらに昭和13年には、有志による宝暦治水奉賛会が設立され、全国に基金を募ってこの神社が作られたそうです(着工は昭和2年から)。
平田靱負を治水の神様として、お祭りする治水神社が創建されます。
この神社では犠牲となった多くの藩士達を慰霊していて、社殿には島津の家紋と平田家の家紋の両方がかけられていました。
コチラの神社ではさまざまなお守りなどが販売されています。
ご利益としては 除災招福・心願成就・家内安全・国土安土と縁結びがあります。
お守りが特に充実していて、水害から救われたエピソードから水難よけ守り、関ヶ原の戦いでの島津軍の敵中突破守りなどさまざまなものがあります。
中でもカッコイイと評判なのは、御朱印。
真ん中に「薩摩義士」と書かれていて、御朱印集めをされている方にはおすすめです。
御朱印を集めていない方は「参拝之証」が100円で販売されていて、こちらも「薩摩義士」と書かれています。
また春には船神輿が出るお祭りがあるのでこちらも有名です。
神社のHPより詳細を引用します。
春季例大祭には、地元自治会より、様々な神輿が奉納されます。式典の最後には、地元有志による舟神輿が奉納されます。
輿には、平田靱負大人の没年である52歳の心男が付き添い、舟神輿と共に長良川で禊ぎを済ませた後、神前まで練り歩きをします。この他、様々な催し物が奉納されます。
住所:岐阜県海津市海津町油島無番地
電話:0584-54-592
<公共交通機関>
養老鉄道石津駅より市コミュニティバス(木曽三川公園下車)で約15分
JR岐阜羽島駅よりタクシーで約30分
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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