どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.04.23
合戦に破れた兵士たちが埋葬された首塚が、関ケ原には2つあります。
一つは東首塚、もう一つは西首塚です。
東と西に分かれていることから、東が東軍、西が西軍というようなイメージを持ちますが、実際は東西関係なく埋葬されています。当時の習わしとしては、敵味方関係なく遺体は大切に埋葬していたそうです。
朱塗りの鳥居があるのは東首塚は、井伊直政と松平忠吉の陣地跡も敷地内にあります。
ひときわ目立つ立派な鳥居に、東首塚と書いてあります。
これは、「尾張藩7代藩主の徳川宗春に関係すると言われる「旧山王権現神社」の一部を昭和17年に移築したもの」と、看板に書いてありました。
中に入ると、スタジイの大木を中心に大きな塚があります。
ここが家康最後陣地で首実検が行われた時の遺体が埋葬されている塚です。
死者の数はわかっていませんが、東西15万余の兵が集結した戦いであることからするとかなりの数なのではないかと思われます。
看板には「昭和6年の官報に「周囲5間、高さ5尺(周囲9メートル、高さ1.5メートル)の円塚」あるが、現在はその形を留めておらず、スタジイの古木が残るのみ」と、書いてありました。
この木は昔からあったのかもしれません。
首洗いの井戸なるものもありました。
同じ敷地内に「松平忠吉・井伊直政陣跡」があります。
松平忠吉は徳川家康の4男で、井伊直政の娘と結婚しているので井伊直政が舅にあたります。
忠吉の初陣でもあった関ケ原合戦は、サポート役として井伊直政がついているという形。
東軍の先陣は福島正則隊でしたが、初陣の忠吉の見聞を広げるための見学と言い張り、「抜け駆け」で宇喜多秀家隊に発砲。
結果的に一番槍は「松平忠吉・井伊直政隊」となってしまったということに。
東軍は圧勝し、一番槍となった功績も残ります。しかし、敵中突破を行った西軍の島津義弘隊の流れ弾に当たり、松平忠吉、井伊直政は負傷。その傷が元で二人共亡くなってしまうことになります。
東首塚は陣跡と首塚の両方が同じ場所にあり、戦いの前半(陣跡)、後半(首実検)の時系列でみるとなるほど、と思う場所です。
住所:関ケ原町大字関ケ原908-3
<電車>
JR東海道線 関ヶ原駅 徒歩3分
<サイト>
http://www2.kanko-sekigahara.jp/historicsites-sekigahara/016.html
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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