100名城を巡る「甲府城」
2024.10.29
2015.04.25
石田三成率いる軍と徳川家康率いる軍。
関ヶ原の戦い。前半は互角、どちらかといえば石田三成の軍が善戦していたといわれています。
関ヶ原の戦い決戦地は、石田三成の本陣笹尾山を背にして、細川忠興の軍、加藤義明の軍、黒田長政の軍などの家康側の豊臣恩顧の大名が笹尾山に攻め込みました。
石田三成側は、島左近、蒲生備中、舞兵庫などの武将がそれに対抗し、激しい戦いとなりました。
石田三成の軍は、島左近が痛手を負ってしまったとはいえ、優位に戦っていましたが、松尾山の小早川秀秋に大谷吉嗣が攻撃を受けたことをきっかけに戦いは一転してしまいました。
石田三成側は、攻めの立場から守りの体制となってしまったのです。
石田三成側の大谷吉嗣が敗れたことによって、宇喜多秀家などの軍も敗れていき、瞬く間に石田三成の軍、そして島津義弘の軍が残るのみとなってしまいました。
石田三成の軍は、このように兵が少なくなってしまったことにより、宇喜多秀家の軍を攻めていた徳川家康の軍は、皆が笹尾山をめがけて攻め挙げていきました。
石田三成もこういった状況を確認すると、これ以上戦うことは不可能と判断し撤退することとなりました。
つまり、この決戦の地というのは、石田三成に敗北を認めさせた場所ということなのです。
撤退を決めた石田三成は、蒲生備中が戦っている間に、笹尾山の本陣から裏手である伊吹山に向かって撤退していきました。
どのようなルートを辿ったかは、明らかになっていないようですが、石田三成の居城である近江佐和山城を目指したのでないかと考えられています。
しかし徳川家康の軍によって、佐和山城までのルートはすでに塞がれ、要所に兵を配置されていました。
近江に入ることはできたようですが、坂田郡、浅井郡など石田三成の治める場所に点在していたといわれています。
そして最終的に石田三成は、石田三成の母の出身地である伊香郡高時村、古橋にある岩穴の中に身を潜めていたところを、徳川家康の軍である田中吉政の兵にみつけられてしまいました。
捕らえられたのは、逃げてから6日目のことでした。
捕らえられた石田三成は、大津に護送されました。
そして石田三成が捕らえられる前に小西行長、そして安国寺恵瓊(あんこくじえけい)もすでに捕らえられていました。
石田三成軍首謀者である長塚正家と宇喜多秀家については、長塚正家が居城である水口城で池田輝政に攻められ自刃。
宇喜多秀家は捕らえることができませんでした。
そして徳川家康は、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を京都六条河原で処刑し、三条橋にさらしました。
石田三成の想いは、さまざまな角度から現代に伝えられていますが、その本心はどのようなものだったのでしょうか。
石田三成の想いを想像しながら、後記京都六条近辺の記事も読んでいただけると、風光明媚な河原の様子もまた別の想いで観ることができるかもしれません。
「石田三成が無念の最期を迎えたと言われる六条河原」の記事はこちら
岐阜県不破郡関ケ原町
JR関ヶ原駅 徒歩20分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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