どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.05.16
池田輝政といえば、関ヶ原合戦後は加増され、世界遺産にも登録されている、国宝・姫路城を8年かけて大改修したことで知られています。
そんな池田輝政は関ヶ原合戦では東軍につき、南宮山に陣を張った毛利輝元らを抑えるために布陣していました。
その場所は、金蓮寺というお寺の中にあります。
金蓮寺で殺害された、関東公方足利持氏の子である春王丸と安王丸の墓もありました。
池田輝政は関ヶ原合戦で、約15万石から約52万石の姫路城城主になりました。
しかし関ヶ原合戦では、動かなかった毛利軍たちが布陣する南宮山の抑えだったのでこれといった功績は残していません。
退去する陣を追撃したくらいだそうです。
それなのになぜこんなに大幅加増されたかというと、前哨戦となった「岐阜城の戦い」で織田秀信を1日で降伏させることに成功したからです。
この前哨戦により、西軍の戦況にダメージを与えることができた戦いです。
また池田輝政の継室は家康の次女。徳川家からしても重要な武将でした。
そんな池田輝政の陣跡はかなり小さく、看板が立っているだけ。
どちらかというと、春王・安王の墓の方が面積が大きかったです。
では、この「春王・安王」とはどんな人物なのでしょうか。
彼らは鎌倉公方の足利持氏の子供です。
室町時代、鎌倉公方と関東管領の権力争いが激しくなり、関東管領の上杉憲実と争っていた足利持氏。しかし幕府は上杉を味方してしまい、持氏は討たれてしまいます。
持氏の遺児となった春王・安王は日光山に落ち延びます。
幕府は次の鎌倉公方には6大将軍の義教の子供を下向させようと思っていました。
それに対して前・鎌倉公方の遺児である春王・安王がその職につくべきという結城氏朝が反乱を起こしますが、敗北。
京都に護送される途中、垂井の金蓮寺で殺害されてしまった、二人。
まだ13歳と11歳の幼い少年でした。
年端もいかない少年たちが権力争いに巻き込まれた、とても悲しい歴史です。
3基の宝篋印塔があり、似たような高さの2基の宝篋印塔が春王・安王の墓で、大きい塔は乳母の供養塔とされているそうです。
時代は違いますがどちらも非常に重要な歴史です。
史跡というより、金蓮寺のお墓として扱われているので、お寺の中にあります。
本堂には春王、安王の木像が安置されているそうです。
住所:岐阜県不破郡垂井町1609-1
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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