愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2023.05.14
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
第18回は、いよいよ行われた三方ヶ原の戦いを細かく描いた回でした。
地の利を活かし、強敵・武田信玄に勝つ!と意気込んだ後の急転直下。
子同然といえる甥の本多忠勝を逃がすため、仁王立ちで武田軍と対峙した本多忠真…
そして、徳川家康を助けるため駆け付け、金陀美具足を身に着けおとりとなった夏目広次…
名前を間違えるというコミカルだったシーン回想も込みで、筆者の涙腺も崩壊寸前でした。
今回の史跡は、前回に引き続き徳川家康と武田信玄の戦いゆかりの地です。
浜松城を目前に、無視する形で西進する武田軍に対してどう対応するかで紛糾する徳川陣営。
勝ち目がないので籠城するか、見過ごしては民たちから見放されてしまうため追撃するか…
悩んだ末に徳川家康が出した決断は追撃、地形を活かして武田軍をたたくというものでしたが、
武田信玄はこれを見抜き万全の状態で迎え撃ち、徳川軍は完敗を喫することとなりました。
・大菩薩坂 浜松城の北側に位置する、武田軍が通ったという欠下の「大菩薩坂」
武田信玄が通ったと伝わる旧道は、「信玄街道」と名付けられております。
・三方ヶ原 三方原墓園のすぐそばにある「古戦場跡碑」
・祝田坂 緩やかに上った先が平地、さらにその先は細い下り坂となっている「祝田坂」
徳川家康も武田信玄も、この地形を活かし戦おうとしたといわれております
・犀ヶ崖 野営していた武田軍を急襲し、徳川軍が一矢報いたといわれる「犀ヶ崖」
「犀ヶ崖」は三方ヶ原の戦いで亡くなった兵たちを祀る地でもあり、
三方ヶ原の戦いで散った夏目広次や本多忠真の碑もあります。
<三方ヶ原の戦い関連記事はこちら>
三方ヶ原の戦いで徳川家康公を守った伝説の木とは
徳川軍を三方ヶ原で叩き、浜松城へ閉じ込めた武田軍はさらに西進。
三河へ侵攻し、吉田城・岡崎城に攻め入るのも時間の問題かと思われましたが、
野田城攻め後に、何故か武田軍は西進をやめて甲斐へ引き返してゆきます。
この時、武田信玄の体は既に病魔に侵されており、進軍する余力はもはやなかったのでしょう。
笛の根に誘われて姿をあらわした武田信玄が狙撃された…という伝説がある城でもあり、
黒澤明監督が『影武者』で取り上げたことにより有名となった城でもあります。
<強い!武田信玄ゆかりの地はこちらから>
武田信玄ゆかりの地を巡る記事(前編)はこちら
・野田城 「本丸」への入口と、その近くにある「空堀」
・野田城 武田信玄をここから狙撃した…という伝説がある「伝武田信玄狙撃地」
・野田城 こちらは三の丸、整備されて丁寧に案内もされておりました
・方性寺 野田城と谷を挟んだ位置にある「法性寺」には、野田城移築門があります
もう一つの見どころ、ここで武田信玄が狙撃された…という伝説のある「笛聞場」
次回は、武田信玄の脅威から解放された後の少しゆるむ回となりそうです。
しかし、同盟相手の織田信長は包囲網を敷かれている真っ最中。
次回予告内で、お市と木下秀吉のやりとりもあったことから、
浅井氏の小谷城を攻め落とすシーンもありそうですね。
大菩薩坂
場所:静岡県浜松市東区有玉西町
祝田坂
場所:静岡県浜松市北区細江町中川6965−12
三方ヶ原古戦場碑
場所:静岡県浜松市北区根洗町国道257−号線
犀ヶ崖
場所:静岡県浜松市中区鹿谷町25
野田城
場所:愛知県新城市豊島竜谷5−80
法性寺
場所:愛知県新城市豊島竜谷4
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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