どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2019.12.19
関ヶ原といえば、1600年の関ヶ原合戦と672年の壬申の乱と2つの「天下分け目の戦い」が行われた場所です。
壬申の乱は、天智天皇の後継者として政権を握ったのが息子の大友皇子。それに反乱を起こしたのが天智天皇の弟・大海人皇子でした。当時東と西を行き来する重要な道であった不破道を塞いで、両軍がぶつかりあいました。
その歴史から貴重な史跡はいくつもあり、資料館もあります。
今回は関ケ原の壬申の乱の史跡を巡ってきました。
東山道の「不破の道」は、東と西を結ぶ唯一の道。この不破の道を塞ぐよう指示されたのが、大海人皇子の舎人であった村国男依ら。そして藤川を挟んで大友皇子軍との激戦が繰り広げられることになります。
大海人皇子(後の天武天皇)の命で壬申の乱の翌年(673年)に関所が設置されました。
関所は国家を守るための護衛が目的で、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置されこれらは「三関」と呼ばれていました。
不破関の大きさは、北限土塁が460m、東限土塁が432m、南限土塁が112m。ほぼ中央に東山道が走り、道に接して北側に築地塀で囲まれた約108mの四方の内郭が構えられ、これは不破関の中心部だったそうです。
今でも残る当時の土塁跡が残っており、しっかりと残っているのが北限の土塁。
発掘調査で高さ2m、幅5~6mほどの土塁が確認されています。
他は畑の中に少し残っている程度となっていますが、北限だけでも1400年以上前のものが残っているのは貴重ですね。
この土塁は1600年の関ヶ原合戦でも活用されていて、当時の土塁跡が活用されていたという鉄砲玉が、不破関資料館に展示されています。
壬申の乱の激しさを物語る史跡は、関の藤川(藤古川)。
先の不破関資料館の裏手から見下ろすことができます。
壬申の乱でも激戦が繰り広げられていましたが、関ヶ原合戦では西軍の大谷吉継軍も東軍と戦ったそうです。
現在はホタルの名所として親しまれています。
大海人皇子が兜を外してかけたという石「兜掛石」と沓(くつ)を脱いだとき足を掛けたという「沓脱石」というものがあります。こちらは不破関跡・不破関守跡の近くで民家の畑の中にありました。
また大友皇子の史跡関連は、黒血川と自害峰の三本杉です。黒血川は両軍の兵士の血が川底の岩石を黒く染めたことからこの名がついたと言われています。
自害峰の三本杉は、25歳で戦いに破れ以外した大友皇子の頭をこの丘に葬り、その印に杉を植えたことから「自害峰」という名前がついたそうです。
関ケ原に行く際は、関ヶ原合戦の史跡だけでなく、壬申の乱の史跡をめぐるとより深く関ケ原合戦のことも知れると感じられる史跡めぐりでした。
史跡の場所は初見ではわかりにくいので、一度関ケ原町民俗資料館、不破関資料館に立ち寄りマップなどの資料をもらったり、アクセス方法を教えてもらい回ることをおすすめします。
岐阜県不破郡関ケ原町松尾21-1
TEL 0584-43-2611
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28
TEL 0584-43-2611
岐阜県不破郡関ケ原町松尾39-1
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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