どこにいた家康 Vol.43 佐和山城
2023.11.10
2020.07.31
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
稲葉山城を攻め落とした信長は、1568年になると再び北伊勢へ。
高岡城を攻め落とし、神戸城(写真)の神戸氏のもとに三男の信孝、
長野氏のもとに弟・信包を養子に入れ臣従させ、北伊勢地域を掌握します。
こちらの采女城も、この侵攻時に戦場となった地と言われています。
神戸城跡(神戸公園)
所在地:三重県鈴鹿市神戸5丁目10−22
采女城跡
所在地:三重県四日市市釆女町
北伊勢侵攻を成功させた後、足利義昭を奉じて上洛しようとする信長ですが、
その進路に立ちはだかったのは、近江を支配していた六角承禎。
これに対し信長は力攻めを選択し、同盟を結んでいた浅井氏や徳川氏の援軍とともに
六角氏の箕作城・和田山城・観音寺城(写真)に攻め込みます。
苦戦しながらも箕作城・和田山城を落とした織田軍の勢いに押され、
たまらず六角承禎は観音寺城を脱出、支城も日野城を残し織田軍に降伏。
その日野城(写真)の城主・蒲生賢秀も、後に子の鶴千代を人質に出し降伏しました。
観音寺城跡(観音正寺)
所在地:滋賀県近江八幡市安土町石寺2
日野城跡
所在地:滋賀県蒲生郡日野町大字西大路2869
その後、上洛からわずか2ヶ月ほどで畿内を制圧すると、翌年には南伊勢に侵攻。
北畠氏のもとに次男・信雄を養嗣子とすることで決着し、事実上伊勢を平定します。
年が変わった1570年には、上洛要請に応えない朝倉義景を討伐するため京から越前へ。
敦賀まで攻め込み、天筒山城と金ヶ崎城(写真)を落とします。
勢いに乗り、朝倉氏の本拠地・一乗谷まで進軍しようとする信長でしたが、
ここで信長のもとに、義弟・浅井長政が裏切ったという信じられない凶報が。
信長は撤退を決めると、木下秀吉・明智光秀らにしんがりを任せて京へと少数で脱出。
この「金ヶ崎の退き口」で煮え湯を飲まされ、信長の標的は朝倉義景から浅井長政へ。
浅井氏との戦をにらみ、長比城・苅安尾両・鎌刃城(写真)らを次々と調略してゆきます。
金ヶ崎城跡
所在地:福井県敦賀市金ケ崎町1
鎌刃城跡
所在地:滋賀県米原市番場
「金ヶ崎」より約二ヶ月後、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は姉川を挟んで対峙。
開戦当初は浅井軍に押されるも、数にまさる織田・徳川軍が徐々に優勢に。
両軍ともに相当な被害の出た激戦でしたが、からくも織田・徳川軍の勝利。
しかしこの後、信長は足利義昭の画策によりさらなるピンチに陥るはめに…
姉川古戦場跡
所在地:滋賀県長浜市野村町772
日野城跡の近くにあるのが、蒲生氏郷(幼名・鶴千代)産湯の井戸。
氏郷は信長から気に入られ、信長の娘と結婚し義理の父子となりました。
こちらも日野城跡にほど近い法雲寺。蒲生賢秀の菩提寺です。
蒲生氏郷産湯の井戸
所在地:滋賀県蒲生郡日野町大字西大路2869
法雲寺
所在地:滋賀県蒲生郡日野町大字西大路1373
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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