どこにいた家康 Vol.43 佐和山城
2023.11.10
2015.11.26
長浜城は豊臣秀吉が初めて城持ちになった場所。そこで建てたお城が長浜城となり、その城を中心に街ができ発展していきました。
そんな長浜城とともに暮らす長浜の人にとって、豊臣秀吉はどういう存在なのでしょうか。
長浜歴史博物館の森岡さんにお話を聞かせていただきました。
初の城持ちになった豊臣秀吉は、なぜ長浜城を選んだのか。それは織田信長が「平地でかつ湖のそばに城を建てなさい」と言われたからなのだとか。
実は秀吉に与えられたのは、出世の足がかりとなった姉川の戦いで、浅井家の居城だった小谷城でした。
しかし、そこにはすまず長浜に自分の城を新しく作ります。その場所選びは信長のアドバイスだったようです。
織田信長は防御を考えて山城に自分の城は築いていますが、家臣の城は監視しやすい平地だったのでしょうか。
そこは想像の世界ですが、天正元年9月、37歳で一城の主となりました。
長浜城の城下町は近世城下町のルーツと言われるほど、先進的なものだったそうです。
城主はなぜ城下町を作り、人を沢山住まわせたいかというと狙いは税金です。
税収を得るためには、沢山の人に住んでもらう必要があります。
そんな秀吉の城下町は「縦町」タイプです。
図録「秀吉と長浜」によると、
天正2年から4年に造成された初期城下町のプランは、城下町が城郭に対して「縦町」タイプである。これは大通りが「大手町」の「町通り」であるのを代表として、本町通り、魚屋通りなど大手通りに並行する東西方向の道はすべてみな「町通り」となっている。
これは、大阪城でも踏襲され、秀次の近江八幡の城下町も縦型。曲がった道もほとんどなく、商業をメインとした街づくりといえるのだそうです。
ちなみに天守は琵琶湖に面した城は3重の堀で厳重に守られていました。
大手門跡はこちら。黒壁スクエアの目の前に碑があります。さすが城内に2つの港をもつ湖上交通を意識していたことと、それによって長浜城はかなり広大な城だったことが感じ取れます。
これが昔の天守跡の碑です。
太閤井戸というインフラの跡も碑があります。長浜城周辺だけでも昔の城跡の碑がいくつもあって、長浜城をイメージすることができますよ。
森岡さんによると「長浜城時代の秀吉は、飛躍のためのひとづくり」だったのではないかと話していました。
それは、官僚など政治をする人を登用したり、石高制を導入したり検地の実施など組織とひとづくりを初めて、土台を固めていたから。
この時に、石田三成とも出会っているので、長浜駅前には石田三成との出会いの銅像があります。
また長浜城時代は中国計略の担当でもあったので、あまり長浜に滞在している時間は長くはなかったものの、正妻のおねがここで黒田長政などを育て、秀吉の留守を守っていた場所。
そのためおねにも愛着が町の人にはあるのかもしれません。
『北国街道菓子処 小松堂重房』さんでは「おんな太閤記」なるお菓子も販売中。
長浜の人にとっは、豊臣秀吉は今の街を作って発展させた功労者として愛されているようです。
長浜市歴史博物館は、長浜城復元天守の中でさまざまな常設展や企画展を行っています。
2015年の12月から約3ヶ月リニューアル工事のため休館になります。
新しく生まれ変わる頃は春で、桜の季節。長浜城跡のあるここは桜の名所でもあるので、新しくなるのが楽しみですね。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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