城を巡る 復興天守の巻:岩国城
2022.02.13
2019.05.21
姫路城は、黒田官兵衛から羽柴秀吉へのプレゼントだったとお話しましたが、
秀吉は、平屋で館のようだった姫路城を三重の天守をもつ、りっぱなお城に築城しました。けれど、秀吉が築いた姫路城は、のちに池田輝政(いけだてるまさ)が新たに築城したため、秀吉のころの遺構はあまり残っていないのです。
残念ですね。
けれど、ガッカリしないでくださいね。
一部ですが秀吉の時代に築かれたのではないかと言われているところも残っているのです。
ぜひ、じっくりと観てきてくださいね。
秀吉の遺構をみつけるには、下調べをしておくことが大切です。
なぜかというと、知らなければ見逃してしまうからです。
うっかり見逃してしまうほど気づきにくい秀吉の遺構とは、いったいどこにあるのでしょうか。
それは、現在の本丸、二の丸、備前丸、上山里などの石垣にあります。
「縄張り?」
縄張りって何でしょうか。
縄張りとは何でしょう
「縄張り」聞くと、私たちは動物が自分たちのテリトリーを示して、ほかの動物を威嚇したり、排除したりする、あの「縄張り」をイメージしますよね。
お城の縄張りもそんなイメージです。
それどころか、じつは「縄張り」という言葉は、お城を築くときの「縄張り」に由来しているのです。
動物の縄張りのイメージを想像していただけると、わかりやすいのですが、お城の縄張りも「お城はここです!」とお城の位置、お城の所有権を示すために縄をはること」をいいます。
そしてここが本丸、こっちに二の丸というように何をどこに配置するかなども縄を張って決めていきます。
構造上のおおもとになる図面というところでしょうか。
池田長政以前の石垣
池田輝政が新しく姫路城を立てたのは、江戸時代ですが、それ以前に造られたとみられる石垣である古式石垣が残っていることから、秀吉の時代である縄張りの存在は確認されたそうです。
この古式石垣は「野面石垣」とも言われ、石をそのまま積み上げた石垣です。
なぜ池田長政は、その石垣を残しておいたのかということについては、確かな情報が残されていないようですが、池田長政が忙しかったという説や秀吉への恩を残したという説などがあるということです。
ちなみに池田長政の築いた石垣は隙間がないようにするために石を加工して組んでいきました。
この石垣は「乱積み」と呼ばれています。
秀吉の時代の石垣は、本丸、二の丸、備前丸などです。
二の丸は大手門からみて左の端。
そして備前丸は右の端。端と端で離れたところにあります。
姫路城を回るには、大手門から入って右回りがおすすめです。
「お菊井戸」の正面が秀吉の遺構であると思われる石垣。
ぬノ門を左手に、りノ門を右手に見るかたちで石垣が廻っています。
太鼓櫓、帯郭櫓、帯の櫓もお見逃しなく。
1581年に姫路城を完成させた秀吉の素朴で武骨さの感じられる石垣と池田長政の美しい石垣の違いを、ぜひゆっくりとみてきてください!
姫路市本町68番地
JR姫路駅および山陽姫路駅より徒歩20分。
姫路駅北口から神姫バス「大手門前」下車徒歩5分
入城料:大人(18才~)1000円
小人(小学生・中学生・高校生)300円
姫路城・好古園共通券:大人(18才~)1040円
小人(小学生・中学生・高校生)360円
開城時間:9:00~16:00
夏季(4月27日~8月31日)は9:00~17:00
休城日:12月29日・30日
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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