武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2019年6月10日記事のため内容が古い可能性があります。

関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・1

2019.06.10

関ヶ原合戦の古戦場を回ったことがあっても、なかなか島津の退き口までは行けないという方も多いのではないでしょうか。
古戦場だけでも数は両軍合わせると相当数となり、その前哨戦まで回ろうとすると1日では到底足りません。

特に敵中突破をした島津軍がどのようなルートをたどって、遥か遠くの薩摩まで帰ったのか。
現在の大垣市上石津町の代表的な史跡を2回に渡ってご紹介いたします。

1・関ヶ原にある島津の陣跡

まずはどこで島津が戦っていたのか、位置を確かめるために退き口を回る前に立ち寄りたいのが島津の陣跡です。
こちらは関ヶ原町の神明神社の森の裏側に、「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。

石田三成が陣を張った笹尾山から800メートルほど南下したところに位置します。
ここには小池・島津義弘陣所跡碑と、関ヶ原踏破隊でこの地を訪れた鹿児島の子供たちの名前が刻まれた石碑も。

ここからさらに南に、東軍の陣中を突破し伊勢街道を目指したのは、西へ敗走する石田三成たちに取り残され、東軍に囲まれ孤立してしまったことにあります。

そこで取った行動が敵中突破でした。
福島正則隊の中を突き抜け、家康がいる陣場野をかすめて伊勢街道へ進軍。

ここからどう島津軍が敗走していったのかをたどっていきます。

2・烏頭坂

島津軍の軍勢は大変少なく、数で勝負すれば圧倒的に不利な状態。
山道の多い伊勢街道は道幅が狭く、数の劣勢をカバーできます。この烏頭坂は第一の激戦区で、ここから西は義弘の甥である豊久と、東は義弘と2手に分かれることになります。

ここで前線にいた豊久が殿となり、激しく松平忠吉と井伊直政軍と戦いました。

一度は耳にしたことがある、島津軍独自の戦法「捨て奸(すてがまり)」という戦法。
草むらなど低い位置にあぐらをかいて佇み、敵が来たと同時に発砲し、あとは槍で追撃するというものです。
これは足止め隊ともよばれ、死ぬまで戦い続けることで敵の進軍を食い止め、時間を稼ぐというもの。

ここで豊久は重傷をおいましたが、伊勢西街道へ逃れました。
烏頭坂には豊久の勇戦を讃える顕彰碑があります。

ちなみに追撃した松平忠吉・井伊直政ですが、壮絶なこの時の戦いで負った傷が元で数年後他界しています。

3・長寿院盛淳の墓と琳光寺

長寿院盛淳は島津義弘の家老で、豊久についで捨て奸を行います。
義弘の陣羽織を身に着け、身代わりとなって戦死しました。

近くの琳光寺には宝暦治水でこの地を訪れた薩摩藩士が刻んだ五輪の塔と、子孫が建てた墓前碑があります。

島津義弘陣陣跡へのアクセス

関ケ原町大字関ケ原1869-3

烏頭坂へのアクセス

大垣市上石津町牧田5078-9

琳光寺へのアクセス

大垣市上石津町牧田2487

武将カテゴリ

地域カテゴリ

北村美桂

岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

岐阜県の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

徳川家康の記事

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ