愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2019.06.14
1543年、三河国岡崎城にて松平広忠と於大の子として生誕。
長い今川・織田氏への人質生活の後、桶狭間の合戦にて敗れた今川氏より独立。
その後は織田信長と同盟、豊臣秀吉に臣従して雌伏の時を過ごすも、
秀吉死後に台頭、関ヶ原の合戦にて勝利し征夷大将軍となる。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を盤石にした後、1616年に死去。
健康へのこだわりが強く、自ら薬の調合も行っていたと言われている。
尾張の織田氏と駿河の今川氏の間にある三河の松平広忠。
今川氏につくため、子の竹千代(家康)を今川氏のもとへ人質として差し出す
…予定が、移送中の裏切りによって織田氏へ送られてしまいました。
その後、今川方が捕らえた織田信広と人質を交換した、と伝えられる場所が笠覆寺。
たくさんある家康像の中でも、一番幼い姿ではないかと思います。
笠覆寺(笠寺観音)
所在地:愛知県名古屋市南区笠寺町上新町83
岡崎城には、趣の違う家康像が3体あります。
まずは、松平元康と名乗っていた若かりし頃の騎馬像。芸術的な雰囲気。
次に、しかみ像と呼ばれるこのお姿。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した後、その失敗を忘れぬようにと
悔しさの滲む自らの姿を描かせた、という画像を立体化したものです。
最後がこちら、打って変わって晩年の落ち着いた雰囲気がただよう佇まい。
がむしゃらな時代、血気盛んだった時代、落ち着いた時代とバランスが良いですね。
おまけで、このようなものも。その名も「天下人家康公出世ベンチ」とな。
岡崎城
所在地:愛知県岡崎市康生町561−1
織田家の人質となったのが4歳頃、人質交換で今川方の駿府へ移ったのが6歳頃。
こちらは、その当時の姿をイメージした像でしょうね。
こちらは、子の秀忠に将軍職を譲り、自身は駿府城へ入った時のお姿かと。
駿府入りが1607年なので、64歳頃。まだまだ若々しくお元気な様子。
JR静岡駅
所在地:静岡県静岡市葵区黒金町
駿府城本丸跡には、格好よく鷹狩をするお姿の家康像が。
江戸か大坂方面を見据えているのかと思いきや、目線は東南東方面。
こちらの方向には、自身を祀る久能山東照宮があります。
駿府城公園
所在地:静岡県静岡市葵区駿府城公園1−1
浜松城の本丸跡には「若き日の徳川家康公」像。
家康公が浜松城にいたのは、1570年から駿府へ移る1586年まで。
1573年の三方ヶ原の戦い前、30歳頃のイメージですかね。
浜松城公園
所在地:静岡県浜松市中区元城町100ー2
1591年、関東入りした家康公が鷹狩の際に立ち寄ったというのが浄山寺。
現在の名にするよう意見したことや、その場で懐紙に三石を与える旨を書いた
「鼻紙朱印状」というエピソードがあるゆかりのお寺です。
浄山寺
所在地:埼玉県越谷市野島32
江戸時代を中心とした展示を行っている江戸東京博物館。
その北側に、ちょっと丸みを帯びた鷹狩姿の家康像があります。
ちなみに下にいるのは亀ではなく「贔屓(ひいき)」という伝説上の動物らしく、
「重きを負うことを好む」ということから、家康公の遺訓にも通ずるものがあります。
江戸東京博物館
所在地:東京都墨田区横網1丁目5−5
浜松城のすぐ近くにある浜松元城町東照宮に立像、
千葉県東金市の最福寺に座像があるとのことです。情報提供感謝!
愛知・静岡は数体ありますが、東京には1体だけというのも意外でした。
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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