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はま松は出世城なり初松魚|「浜松城」で尽力した徳川家康

2023.10.03

「浜松城」と徳川家康

静岡市最多の人口を有する浜松市。

浜松市公式ホームページによると、「浜松市」の地名のおこりは、730年(奈良時代)、伊場遺跡から出土した木簡に「浜津」の地名が記載されていたこととしています。

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はま松は出世城なり初松魚

NHK大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名が「浜に松が並んでいる」場所と口にしていた地、浜松。
「はま松は出世城なり初松魚」は、明治・大正時代の俳人である松島十湖さんが、浜松を詠ったものです。

「初松魚」は「はつがつお」と読み、季語ですが、なぜ「はつがつお」にしたのかは、わかっていないそうです。個人的には、「鰹」ではなく「松魚」にしているので、「浜松」とかけているような気がします。

浜松城では、徳川家康をはじめ、その後数多くの城主が、老中(松平乗寿、松平信祝、井上正経、水野忠邦、井上正直)や大阪城代(太田資次)、京都所司代(松平資訓)などに登用されたことから、のちに出世城と呼ばれるようになりました。

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徳川家康、「浜松城」城主になる

徳川家康の前に引間城主であったのはお田鶴の方。気丈夫な性格であったようですが、民に慕われ、おんな城主として立派な仕事をしていたようです。

民にとって、大切な城主を討った徳川家康。当然、最初は慕われることなどなかったのは、当然と言えば当然のことです。城主は臣下たちに信頼されるだけではなく、城下の民にも信頼を得ないと戦で勝つことは難しくなるものです。

城主当初は、なかなか厳しい状況だったことが想像できますね。

また、この頃、室町幕府15代将軍足利義昭が織田信長討伐令を出したことから、武田信玄と戦うことになり、結果、武田軍に大敗。けれど、この大敗も実は徳川家康の戦略であったのでは?という説もあります。

 

「浜松城」の石垣

ところで、みなさんはお城の石垣をじっくりとご覧になりますか?

浜松城の石垣は、自然そのままの石(野面石)を使っていて、接合部もほとんど加工せずに積んでいく野面積みという方式でつくられています。

立派な石垣ですが、この石垣は、徳川家康が城主になったときからつくられていたというわけではないそうです。
実は、いつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわからないとのこと(浜松市公式ホームページによる)。
浜松市によると、浜松城2代目城主堀尾吉晴の頃で、1590年頃ではないかというのが有力だそうです。

 

「浜松城」まとめ

徳川家康が居城していたときには、石垣がなかったとは少し驚きですね。
改修工事をしてから移るという時間的な余裕はなかったのかもしれません。

浜松城は徳川家康の天下統一に向かう始まりの城と言っても過言ではない城。まさに「重荷を負うて遠き道を行くが如し」。

 

今回の史跡「浜松城」

静岡県浜松市中区元城町100-2

【浜松城公園の営業時間】

8:00~21:00

【定休日】

不定休

【アクセス】

JR浜松駅より

遠鉄バス市役所行き等 浜松城公園入口下車徒歩3分

遠州鉄道

遠州病院駅 徒歩17分

八幡駅 徒歩20分

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rico

教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。

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