どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2019.07.16
桶狭間の戦いで勝利した織田信長が、次に着手したのが美濃の侵略。
それが有名な「稲葉山城」の戦いです。
この戦いの結果、井口から岐阜と名称が変わったというものです。
前回ご紹介した、秀吉の一夜城の伝説も稲葉山城の戦いで斎藤龍興に対する対策でした。
今回は、兵力差が大きくある中で信長軍が圧勝した森部の戦いの史跡を安八町へ見に行きました。
稲葉山城の戦いは永禄10年(1567年)に斎藤氏の居城・稲葉山城を、織田信長が攻め取った戦いです。
美濃侵略は難航。永禄3年から攻め入るもなかなか落城できずに、攻めては敗退を繰り返した。
永禄4年には織田信長が、本郷村(現・羽島市)から長良川を渡って森部村に進出。斎藤龍興軍6000と信長軍1500と兵力差が大きいまま斉藤龍興軍と戦うことに。
圧倒的に兵力の少ない信長軍のとった作戦は、敵を油断させ、墨俣から一気攻めてくる龍興軍を待ち構え、兵を3手に分けて狙い撃ちにするというもの。
その作戦が成功し、信長が勝利しました。そしてこの時、前田利家が首級を2つ上げるという大活躍をしました。
この時利家は信長の小姓を斬り殺し、織田家を追放されていました。
なんとか信長に許しを得るべく、私的に合戦に参加。
その結果、結城主で日比野下野守の家臣・足立六兵衛を打ち取るという功績を残します。
この足立六兵衛は「首取りの足立」と言われ彼の首一つで、首を取れば城を落としたも同然と言われるほどの猛将でした。
その功績が認められ、利家は帰参を許された利家。
彼の大大名への出世の足がかりになった戦いとして、「薬師堂」近くに出世の松が植えられています。
信長が敵将の首実検を行ったのは、現在の「薬師堂」あたりととのこと。
「薬師堂」には信長が鎧を松にかけたと伝えられる「鎧かけの松」も、昭和30年頃まで残っていたそうです。
森部合戦の合戦戦没者をまつる石塔も敷地内にありました。戦いで、織田軍の死傷者は少なく、大部分は斎藤軍の兵士だったそうなので、多くは斎藤軍の兵士かもしれません。
住所:安八町森部下河原2831
アクセス:東海道新幹線岐阜羽島駅より名阪近鉄バス大垣駅行き「大森」バス停下車徒歩5分
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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