武将愛 SAMURAI HEART

どこにいた家康 Vol.30 新府城

2023.08.05

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

武田勝頼が築き徳川家康が改修した「新府城」

今回の史跡は、天正壬午の乱の際に徳川家康が本陣とした「新府城」です。

1581年、躑躅ヶ崎館から本拠地を移動するため武田勝頼が築城。
しかし、翌年に織田・徳川軍の侵攻がはじまると武田勝頼は火を放ってこの地を離脱、
新府城は未完成のままその役目を終え、武田氏は滅亡してしまいます。

徳川家康と北条氏との対立を中心とした甲斐国をめぐる戦い
「天正壬午の乱」をご紹介した記事はこちら
(リンク先の中盤にてご覧いただけます)

武田氏の本拠地であった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」をご紹介した記事はこちら

武田勝頼の入城から68日ほどで燃やされてしまった新府城ですが、
本能寺の変後に起こった「天正壬午の乱」で徳川家康が入城。
本陣として利用するため、改修を行ったといわれております。

丸馬出や三日月堀などの「武田流築城術」の遺構が良好に残っており、
往時の雄姿を想像しながらゆっくり見て回るのがおススメ。

<その他の「武田流築城術」の城はこちら>
武田勝頼が遠江攻めの橋頭保とするため築かせた「諏訪原城」

徳川氏と武田氏が奪い合った「小山城」

 

「新府城」の見学ルート①

・駐車場のある北側に行き、まずは「水堀」をチェック

・堀を左手に見つつ、北西にある「搦手」から進入してゆきましょう

・登り始めてすぐ目の前に現れる、広く力強い「乾門枡形虎口」

・乾門枡形虎口の奥に見えていた「二の門跡」を反対側から
釘などが出土していることから、何かしらの門が建っていたとされています

・乾門枡形虎口から二の丸方面へ、緩やかな登りが続きます

・こちらは「木橋の橋台跡」、往時は堀の上に橋があったとか

・道中右手にある巨大な「井戸跡」、写真ではわかりづらい…

・井戸跡を後にし「二の丸」へ、本丸はすぐお隣です

 

対北条氏を見据え、徳川家康は「新府城」へ入城

1582年の武田氏滅亡後、甲斐の地を織田信長に任されたのは、
織田信長の嫡男・織田信忠の補佐し甲州征伐で活躍した河尻秀隆でした。

しかし、同年に本能寺の変が起こると甲斐の国では武田遺臣による国人一揆が勃発。
その後河尻秀隆が武田遺臣に討たれると、この地を狙い徳川氏と北条氏が敵対、
さらには上杉氏・真田氏などもからむ争いとなり、世に言う「天正壬午の乱」が起こります。

天正壬午の乱において、徳川家康は
・武田遺臣と事前に取りこみ一揆を起こさせ、河尻秀隆を排した
・旧織田領の確保を図るため、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀らが参加した
「清洲会議」にはかり、あらかじめ了承をとってから侵攻した
という過程を踏んだといわれており、準備万端で新府城へ入り北条氏と対峙。
黒駒合戦で勝利した後、織田信雄らの勧めで徳川氏と北条氏は和睦することとなります。

天正壬午の乱の後、多くの武田遺臣が徳川家康に臣従することとなり、
この中には、朱色の具足で戦場を駆けた精鋭部隊「赤備え」を担った者たちもおりました。
後に、この遺臣たちを任された井伊直政は自らも朱色の具足をまとい部隊を編成。
「井伊の赤備え」として、この後の戦いで大活躍することとなります。

武田の「赤備え」を継承した井伊直政の騎馬像をご紹介
(リンク先の中盤でご覧いただけます)

 

「新府城」の見学ルート②

・いよいよ「本丸」へ、ここでしばし武田氏に想いを馳せましょう

・本丸にある「武田勝頼公霊社」と「武田十四将霊碑」

・本丸の北東側少し下がった場所、新府藤武神社がある「稲荷曲輪」

・本丸と本丸馬出の間にある「蔀の構(しとみのかまえ)」
外から本丸の様子がわからないようにするため、植え込みや土塁があったそうな

・本丸から南東へ進み、南側防御の要「大手桝形」へ

・大手桝形虎口を通過すると、最大の見どころである「大手丸馬出」が

・下段へ降りて、もうひとつの見どころである「三日月堀」もお忘れなく

 

次回どうなる、『どうする家康』

伊賀越えも終わり、徳川家康三大危機もすべて切り抜けましたね。
諸説あるルート問題は、三手に分けてすべて回収するという妙手。

白子浜→知多半島を経由せず直接大浜というルート選択は、
知多半島に思い入れのある身としては少し残念でしたが、
多羅尾光俊や百地丹波もしっかりと登場し、上手くまとまったなという感想でした。

次回は、清洲会議と天正壬午の乱あたりでしょうか。
甲州征伐からはじまった1582(天正10)年、めちゃくちゃ濃い1年ですね…
これから始まる羽柴秀吉の時代、徳川家康との関係をどう描くかが気になるところです。


後に築城され甲斐の中心となった「甲府城」

今回の史跡「新府城」

新府城
場所:山梨県韮崎市中田町中条字城山

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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