名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.04 大天守 其の四
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2016.10.19
小牧長久手の戦いの長久手古戦場は、接近戦だったため史跡が近くにあるのですが、少しだけ離れた場所にあるのが「木下勘解由」の墓。
木下勘解由という聞きなれない名前の武将ですが、彼は三好秀次(豊臣秀次)の家臣で、白山林の戦いで徳川軍の榊原康政たちに奇襲攻撃され、窮地に陥ってた時、秀次を逃し、代わりに殉死した忠臣です。
そんな勘解由の墓も立派な史跡として認定されています。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
奇襲に成功した徳川軍は、現在の尾張旭市の方にある白山のほうから、堀秀政がいた桧が根のほうへ攻めていきます。
そのルートに木下勘解由の墓があります。
由来は以下のとおりです。
白山林の戦で馬を失くした三好秀次(みよしひでつぐ)は,可児才蔵(かにさいぞう)に馬を借りたいと頼むが断られた。木下勘解由利匡(きのしたかげゆとしさだ)が自分の馬を秀次に与えて逃し,追ってきた徳川勢と奮戦し,兄の木下助左衛門祐久(きのしたすけざえもんすけひさ)と共にこの地で戦死。木下祐久は秀吉の正室おねの父だという説もある。
木下一族に助けられた秀次だったが,秀吉の実子・秀頼が生まれると,秀吉と不仲となり,切腹させられるという非業の最期を遂げた。
引用:長久手フィールドビュー
可児才蔵といえば、関ヶ原の戦いで福島正則軍でバッサバッサと西軍の兵士を斬りまくった、あの笹の才蔵です。
なぜ馬を貸してあげなかったんでしょうか。
木下勘解由は奮戦したもののあえなく戦死したのですね。
他の資料では、身代わりになったと書かれているものもありました。
身代わりと言えば、賤ヶ岳の戦いのときの柴田勝家の家臣・毛受兄弟が思い出されます。
なんとセンチュリースクエア藤が丘の敷地内に木下勘解由戦死地の石垣がありました。
すぐに土に埋められたのでしょうか。この石垣も当時のもの?と見まごうのですが、関係なさそうです。
マンションの下にひっそり佇んでいますね。
敷地に入ることはNGですが、道の外から写真を撮りました。
忠臣の悲しい最期について知れる場所です。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
住所:長久手市荒田9-1
電話:電話:0561-56-0627(生涯学習係)・0561-63-1000(スポーツ係)(長久手市役所くらし文化部生涯学習課)
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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