愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2016.10.05
もはやシリーズ化している、小牧・長久手の戦いを巡る旅。
今回は長久手の戦いの被害の大きさを物語る、「長久手古戦場」3つの史跡「血の池公園・鎧掛けの松」「長久手城址跡」「首塚」をご紹介します。
小牧・長久手の戦いは、羽黒の戦いから長久手の戦いまでで約4000人の戦死者がでる残酷な戦いでした。
特に被害が大きかったのは、4月9日に両軍がぶつかった長久手の戦いで、森・池田軍は2500余名の死者を出しています。
そのため、長久手周辺にはたくさんの犠牲者が出たことがわかる史跡がたくさんあるのです。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
このおどろおどろしい名前のだけでも、戦いの残酷さが垣間見られますね。
この名前がついたのは、小牧・長久手の戦いの後、武将たちが松に鎧をかけて、地の付いた槍や刀を洗った池が合った場所なのだそうです。
その池があった場所は公園となっています。
そんな逸話があるとは思えないほどのどかさ。
広さも十分にあり、近所の子供達がサッカーを楽しむ場所として知られているようです。
長久手古戦場の史跡はここだけではありません。
公園の裏手にいくと、鎧をかけた松があります。
看板後ろにある大きな松が、その松です。
相当な大きさで写真に収まりきりませんでした。
すぐ裏には、子供が自転車の練習をしつつ、交通ルールが学べる長久手町交通児童遊園もありました。
自転車は無料で貸してもらえるそうです。
地図は看板が分かりやすかったです。
血の池公園、鎧掛けの松の史跡は、子どもたちの遊び場として親しまれています。
残酷な歴史があったことと現在を比べると、平和な時代に感謝したくなります。
お次は長久手城址跡です。
こちらのお城は、前回ご紹介した日進市の岩崎城跡と歴史がつながっています。
岩崎城は徳川家臣の丹羽氏重が約300人の兵士とともに、2500余りの池田恒興軍と3日戦い、全員殉死したという壮絶な戦いがありました。
その親戚であった加藤太郎右衛門忠景の居城跡が、長久手城址跡なのです。
加藤氏は岩崎城が落城したと知り、戦死してしまいます。
江戸幕府となってからも、尾張徳川藩に大事にされ、この碑を立てたのだそうです。
その横には観音堂がありました。
血の池公園と長久手城址跡は近いので、セットで回れます。
首塚は長久手城址から離れますが、岩作村安昌寺の雲山和尚が合戦で戦死した多くの将兵の屍を集めて、塚を作ったと言われる場所です。
特に長久手合戦は2500人もの死者を出しているので、相当な遺体数だったのではないかと想像できます。
住宅街にあるのでこうした看板を目印に道の中に入ります。
史跡説明の看板。尾張藩や近隣の人が毎年供養に訪れる(た)そうです。
大事にされているのですね。
この石碑は明治時代に地元の有志によって立てられたもの。
住宅街の中にひっそりとあるので見逃してしまいそうですが、戦を知る上では外せない場所なのではないでしょうか。
ちなみに安昌寺はこの首塚の近くです。
小牧・長久手の合戦後、多くの藩士が訪れ、合戦にまつわる各種の書付を残したそうです。
丹羽氏次からの田畑寄進状もあるとのこと。
いかがでしたか。
実は壮絶な戦いだった小牧・長久手の戦い。
長久手古戦場の史跡は陣跡より、塚などのお墓が多いことからも、被害の大きさが物語られていますね。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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