徳川家康の側室「お万の方」とゆかりのある「蓮永寺」
2024.04.01
2023.07.08
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、武田信玄・勝頼父子が狙い続けた「高天神城」。
鶴翁山(かくおうざん)の東峰と西峰という二つの尾根を利用し築城、
鳥が両翼を広げているような形から「鶴舞城」という別名があります。
山の中心には井戸曲輪があり、主に居住区である東峰と戦いを意識した西峰が独立する
「一城別郭(いちじょうべっかく)」というめずらしい構造で、
見どころは多くの曲輪や土塁、長い横堀や尾根を絶つ堀切など盛りだくさん。
最近ではARやVRを用い往時の姿を再現するなどの活動もしているそうで、
CGが美麗な公式ホームページ(https://takatenjinjyo.com/)もおススメです。
・駐車場の想像図をチェックし、南東側にある「追手門跡」方面から入城
・追手門跡の先にある「着到櫓跡」を見学し、三の丸跡方面へ向かいます
・こちらが城跡の東端に位置する「三の丸跡」、土塁などが残っております
・三の丸跡の次は、北西から南東に長く伸びる「本丸跡」へ
・本丸跡の東南にある「御前曲輪跡」には、かつて模擬天守が建っていたとか
・本丸跡の北側には、徳川方の大河内政局が幽閉されたという「石窟」が
大河内政局は降伏後も城内にとどまり、これに激怒した武田勝頼がここに幽閉したそうな
・石窟から「的場曲輪跡」を通り、城跡の中央に位置する「井戸曲輪跡」へ
高天神城奪還に燃える徳川家康は、横須賀城や高天神城を包囲する「高天神六砦」を築き、
武田方の補給を遮断して兵糧攻め。1581年にようやく大願成就となりました。
この間、高天神城を任されていた武田方の岡部信元は武田勝頼に救援を依頼していましたが、
苦境に陥っていた武田勝頼は援軍を出せず、結果として岡部元信らを見捨てた形に。
一説では、武田勝頼が到底援軍を出すことはできないと見抜いた織田信長が
高天神城にいた武田方の降伏を許可せず長期的に留まらせ、
・救援に来ない武田勝頼が「城兵を見捨てた」と悪評を広め、信用失墜を狙った
・万が一救援に来た場合は迎撃し、さらに武田軍に打撃を与える
というようなことを考えて行動していたとか。
いずれにせよ、この出来事により武田勝頼は声望も威信も失うこととなり、
後に武田家からは多くの離反者が出る結果となってしまいました。
・井戸曲輪跡から北西へ進み、「二の丸跡」と「袖曲輪跡」を見学
・袖曲輪跡横の小道を下ると、素晴らしい「堀切」が右手に見られます
・曲輪の下にある長い「横堀」、比較的緩やかで高天神城の弱点だったこの方面を
武田勝頼の時代に改修、鉄壁の防御を備える危険な空間となったとのこと
・横堀を右手に見ながら北端まで進み、「井楼曲輪跡」へ登って二の丸跡方面へ進みましょう
・井楼曲輪跡と井戸曲輪跡間にある「堀切」を上から堪能し、井戸曲輪跡まで戻ります
・井戸曲輪跡の西側階段を登り、南西に伸びる「馬場平」から甚五郎抜け道へ
・1581年に徳川家康が高天神城を奪い返した際、武田方の横田甚五郎尹松はここから抜け出し
武田勝頼に落城の報告をしたことから、「甚五郎抜け道」と呼ばれているとのこと
・最後は井戸曲輪跡から「搦手口」へ、道中に「三日月井戸」なるものがあります
瀬名と松平信康を失い、心に大きな穴が開いたと思われる徳川家康。
装いも新たになった次回予告でしたが、その心のうちはいかに?
抜け殻になったようにも一皮むけたようにも見えましたが、
実年齢にも近づいてきた松本潤さん=徳川家康の演技に注目ですね。
前半のクライマックスを終え、次の大きな山場は本能寺の変と伊賀越えでしょうか。
これから大坂の陣までまだまだ見どころ満載、どのようなペースで進むのか、
本多正信の再登場はどこになるのか…などが気になるところ。
「高天神六砦」のひとつ、獅子ヶ鼻砦跡
高天神城
場所:静岡県掛川市上土方嶺向3136
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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