愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2017.09.27
「桶狭間の戦い」は信長による奇襲が成功し、今川義元の首がとれた戦いとして知られています。
しかしその奇襲がどのルートで、どうだったのかは諸説あり未だに謎のままです。
その研究が進み、「桶狭間の戦い」時の地形が奇襲を成立させる大事なポイントであるという説もあります。
現在の桶狭間周辺は住宅地で当時の地形の面影はありませんが、当時の地形が味わえる史跡が3つあるのでこちらをご紹介します。
こちらは織田軍の善照寺砦があった「砦公園」です。
善照寺砦は「桶狭間の戦い」の説の1つ、「正面奇襲説」を決定づける重要な史跡。
正面奇襲説についてはこちら。
善照寺砦 迎撃作戦隠す信長の城<桶狭間その四>-読売新聞
以下に詳しい図が掲載されています。
【34】本地鳴海古城跡之図 桶狭間の原因となった鳴海城の裏切り-徳川美術館「天下人の城展」
本来、鳴海城(織田軍→今川軍に寝返り)の付城として位置するはずの善照寺砦ですが、実はこの場所、鳴海城が見えないという不思議な地形。
つまり、付城(鳴海城を攻撃するための城)としての機能を一切果たしていないのです。
ではこの善照寺砦はなんのためにあるか。
敵にさとられず、今川軍が進軍している桶狭間山を監視するための砦ということになります。
この地形を体感するには、ぜひこの遊具に登ってみてください。
実際、桶狭間山がこの遊具からはちゃんと見える位置関係にありました。
ちなみにこの砦を守っていたのは、佐久間信盛、信辰兄弟。
織田家の重鎮となる家臣たちです。
住所:愛知県名古屋市 緑区鳴海町砦3
<アクセス>
名鉄名古屋本線鳴海駅 徒歩10分
善照寺砦は入っていないものの、丸根砦からのウォーキングコースがあります。
大高城は若き日の徳川家康が食料を運び込んだと言われる海に面した城です。
食料を運ぶという行為はただの運送という意味合いではなく、敵に見つかったら攻められてしまう危険な任務。
しかしその大役を無事に果たすことができました。
そもそも大高城は、織田信秀の配下にありましたが、鳴海城の山口教継が今川軍に寝返った時に、大高城も今川配下となります。
鵜殿長照が守備につきますが、兵糧入れが完了した徳川家康も守備に入りました。
こちらが本丸だった場所。かなり大きなお城で二の丸や堀の跡などの遺構が残る、国の史跡です。
住所:愛知県名古屋市緑区大高町城山
<アクセス>
・JR東海道線大高駅下車 徒歩10分
http://www.nagoya-info.jp/shisetsu/amuzBLV2.html?cts=view
付城の概念からすると、丸根砦、鷲津砦は大高城の付城というポジションにあたります。
大高城は前述の通り、重要な今川軍の城。その付城である丸根砦、鷲津砦は落とされたことで、大高城への兵糧運び込みが成功するわけですが。
丸根砦、鷲津砦はどんな場所にあったかというと、山の高い位置にあったと感じられます。
実際に鷲津砦へ行ってみると急な坂道を上がっていったところに、史跡がありました。
写真では上手く写せませんでしたが、木が生えているので対岸に何があるのかはわかりませんでした。
鷲津砦から少し坂を下ったところに丸根砦があります。
丸根砦は坂の下の方なのでそこまで高さはありません。
鷲津砦と同じく木がたくさんあって、対岸に何があるかはわかりませんでした。
対岸の様子は分からないにしても、坂の具合でいかに高い場所に砦があったかを体感できる史跡です。
大事な兵糧が入った重要拠点の大高城、しかも付城である鷲津砦、丸根砦の2つが落ちたとあれば、今川軍も勝利が見えてきたと思うでしょうね。
ちなみに大高城が安泰であれば、兵を鳴海城(今川軍の城)の援軍に追加して織田軍と徹底抗戦できる。
そんな計画をこの時点では立てていたのかもしれません。
想像が膨らみます。
住所:愛知県名古屋市緑区大高町字鷲津山
鷲津砦公園
<電車>
JR東海道線 大高駅徒歩5分
住所:愛知県名古屋市緑区大高町丸根
電話:06-6946-5728(ゴーナニワ)
<電車>
JR東海道線 大高駅徒歩5分
車の場合、どちらも駐車場がありません。
大高緑地第6駐車場(愛知県名古屋市緑区大高町砦前)の駐車場に停めて歩くことをおすすめします。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
愛知県の記事
織田信長の記事
この記事の後によく読まれているおすすめ記事
バックナンバー記事
この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています