続100名城を巡る 「赤木城」
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2020.11.01
豊臣秀吉を祀る神社『豊國神社』。
調べてわかっただけでも、国内10か所に祀られています。
出生地である愛知県名古屋市、居城があった大阪府大阪市、そして一番最初に創建された京都府京都市の豊國神社、どの豊國神社も豊臣秀吉に縁のある地に祀られています。
中でも京都市にある豊國神社は、徳川家康との関係性が強い神社です。
そこで今回、京都市にある豊國神社から、徳川家康の人物像を探ってみました。
京都市東山区に鎮座する豊國神社のご祭神は豊臣秀吉。
地域の人々から『とよくにさん』と親しまれる神社です。
みなさんもご存じの通り、神社に祀られているのは『神様』。
ですので、ここ京都市にある豊國神社に祀られている豊臣秀吉も神号が『豊國大明神』という神様ということになります。
この神号は1599年に朝廷より下賜されました。
1599年といえば、豊臣秀吉没年の翌年です。
豊臣秀吉が亡くなったことはしばらくの間、伏せられていたため、遺骸はしばらく伏見城に安置されていましたが、その後豊臣秀吉の遺言通り、方広寺東方の阿弥陀ケ峰山頂に埋葬されました。
着工時は、まだ豊臣秀吉の死が伏せられていたので、八幡大菩薩堂(新八幡社)の建立ということで施工され始めていたのですが、完成とともに正式名称を『豊國神社』とし、豊臣秀吉の遺言通りに正一位の神階が与えられました。
ちなみに神階とは、律令制のもと神道の神様に授けた位階のことで、人にも神様にも与えたランクのようなものです。
もちろん正一位が最上のランクです。
豊臣秀吉は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の5大老などに宛てた十一か条の遺言の中に、自分自身の遺体は埋葬とし、神格化して『新八幡』とすることが挙げられていました。
残念なことに、豊臣秀吉の希望であった『新八幡』としての神格化はかないませんでしたが、『豊國乃大明神(とよくにのだいみょうじん)』として、遺言通り神様となり祀られました。
ところが豊臣家が滅びたことを機に、徳川家康は豊臣秀吉を方広寺の鎮守にということで、『豊國大明神』としての神号をはく奪しました。
もちろん、方広寺は豊臣秀吉が発願した大仏が安置され、開基は豊臣秀吉なので、徳川家康の行いは無意味なものではありません。
豊臣秀吉が望んだ『新八幡』は、奈良県にある東大寺の大仏建造に協力しようというお告げをした『八幡神』ではないかという説もあること、そして方広寺が豊臣秀吉の造った大仏を安置する寺として創建されたことを考えると、
『秀吉』→『八幡神』→『大仏』→『方広寺』
という思考の流れは納得できるもので、方広寺の鎮守となれば、神号を持っている必要がないという道理は何も違和感がないものとなります。
徳川家康は、かなりの策士であることがよくわかります。
自分の意のままに物事を動かすための思慮深さを垣間見ることができますね。
このことから想像できる徳川家康の人物像は『根回しに長けた思慮深い人』。
徳川家康の思慮深さは、いろいろな場面でわかりますが、このことでもよくわかります。
現存する豊國神社は、明治天皇によって再興を布告され再建されました。
神になった豊臣秀吉は、一度は神の神号をはく奪され、再び神となりました。
豊臣秀吉が神であっても、神でなくても、そして今もなお、豊臣秀吉は多くの人の心の中に『とよくにさん』として拠り所となっているようです。
【豊國神社へのアクセス】
京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530
拝観時間:9:00~16:30
拝観料:無料
宝物殿:大人300円 大学生・高校生200円 中学生・小学生100円
京阪電車 七条駅下車 徒歩8分
市バス 博物館・三十三間堂前 下車 徒歩5分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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