愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2016.10.12
小牧・長久手の戦いシリーズ。
基本的には徳川軍が戦に勝っていますが、唯一秀吉軍が長久手エリアでの合戦で勝利したのは、堀秀政率いる桧ヶ根の戦いです。
堀秀政は大変有能な武将で、織田信長、豊臣秀吉の家臣として活躍し、北ノ庄城の城主として18万石の大名になりましたが、小田原評定の時に、38歳の若さでこの世を去りました。
そんな秀吉軍きっての切れ者武将、堀秀政が仕掛けた桧ヶ根の戦いは、形成有利な徳川軍の榊原康政たちを翻弄。
引き際の完璧さもあって、この戦いのみ秀吉軍が勝利しました。
堀秀政の戦いぶりの鮮やかさはワクワクしますし、そんな史跡の場所も気になります。
さっそく桧ヶ根の戦いの史跡をご紹介します!
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
さてさて、大活躍した堀秀政の陣跡を見に行こうと、長久手市の桧ヶ根公園に行ってみました。
この公園はスプリンクラーや流れる川があり、子どもたちに大人気の公園のようです。
たくさんの親子が遊んでいる、賑やかな公園です。
まさかそんな穏やかな公園が、戦国時代には多くの犠牲者を出すほどの死闘が繰り広げられたとは想像できません。
そんな穏やかな光景を横目に史跡をめがけて歩きますが、なかなか見つかりません。
代わりに友好の木という物を見つけてしまうほどです。
ウロウロすると、ありました。
茂みの中にひっそりと堀秀政陣跡の石碑が立っています。
住所的には桧ヶ根公園なのですが、その中を散策しなければ見つからないのでわざわざ感がある場所とも言えますね。
そして、徳川四天王の榊原康政たちに勝利したにも関わらず、史跡はコレだけです!
案内板もこれだけ。
やはり徳川でなければ力を入れて史跡化してくれないのでしょうか?と勘ぐってしまいますが、単純にそれ以上わかることがないのかもしれません。
というのも、堀秀政は榊原康政たちと真っ向からぶつかるのではなく、秀吉軍の戦況が悪化しているとすぐに察知し、兵を退却させています。
ダメージを最小限に抑える戦い方をしたので、この地には歴史があまり残っていないのかもしれません。
ちなみに香流川を活かし、桧ケ根の高所に陣を置き、自軍の兵約3000を三つの部隊に分けて防衛線を敷いた戦法を取りました。
この香流川が堀秀政の防衛戦の要です。
明朝の白山林で豊臣秀次軍が家康軍の奇襲攻撃で壊滅状態になり、その残党兵が駆け込んだことで徳川軍が追撃していることを知ることにななります。
白山林で勝利した大須賀康高・榊原康政軍は勢いに乗って、堀秀政の軍に突っ込んでしまいます。
突っ込んだが最後。
堀秀政が待ち伏せされているとも気づかず、敵陣に入り込んでしまったので形勢不利なまま戦いを強いられ、壊滅状態に。
その後、岩作城のほうへ敗走した大須賀康高・榊原康政軍。
追撃して追い詰めようと思ったものの、色金山に徳川家康の馬印を見たため、これ以上追ったら危ないと判断し、退却。
秀吉軍は池田恒興、森長可軍、秀次軍が敗れた中、堀秀政軍だけはほぼ兵を失わずに退却に成功しました。
現在は住宅街となっているので、昔のような山と谷に囲まれた様子や、軍がどう動いたかは想像できません。
そこで、公園付近の歩道橋の上で秀次が敗れた白山林と、家康がいた色金山を見てみました。
グーグルマップで無理やりですが、だいたいの場所を書いてみました。
歩道橋の東側に色金山。
北側に白山林があります。
今は平地のように見えますが、当時はこれが尾根伝いだったと思うと、全然見え方が違いますね。
周囲を山で囲まれているとしたら、白山林で大敗を期しているなんて、桧ヶ根の堀秀政は気が付かなかったのだろうと思います。
桧ヶ根公園は史跡は石碑だけですが、歩道橋からそれぞれの軍の動きを当時の目線でイメージできるのでおすすめです。
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決「小牧長久手の戦い」を紐解く記事はこちら
住所:愛知県長久手市坊の後113
問い合わせ:建設部みどりの推進課
電話:0561-56-0552(緑化推進係)・0561-56-0620(農政係)
https://www.city.nagakute.lg.jp/midori/kouen/shinaikoen/hinokigane.html
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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