愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2017.08.23
小豆坂の戦いは三河側の今川氏・松平連合軍と、尾張側の織田家との戦いで天文11年(1542年)と17年(1548年)の2回に渡って行われた戦いです。
小豆坂は現在の岡崎市にあり、道の横に石碑があります。
当時三河地区への進軍を行っていた織田信秀と、それを守ろうとする松平家の攻防が行われていました。
そして、戦いの最中、今川家に人質として送られる途中の竹千代が戸田氏に誘拐されてしまうという事件も起きています。
尾張をおさめ、信長時代には美濃へも進出を果たした織田家ですが、実は信秀の代では三河への進出も積極的に狙っていたようです。
三河をおさめる松平家は織田と、遠江・駿府の今川の脅威にさらされていました。
最初の戦いが起こったのは天文11年(1542年)8月。天文9年(1540年)、森山崩れで家康の祖父・松平清康が家臣に殺され、松平家が弱体化したスキをついて安祥城を落城させた信秀。庶長子・信広を城代として置いていたので、そこを拠点に矢作川を渡って対岸の上和田に布陣します。
対する今川軍も三河への侵略が進む中、これ以上先へは進ませまいと兵を出し、小豆坂で激突しました。
その結果、第1次では織田軍が勝利します。
そんな中、現在の刈谷あたりをおさめる水野信元がもともとは松平家と同盟を結び、姉の於大が嫁いでいたにも関わらず織田家と同盟を結ぶことになってしまいます。その情勢をうけて、家康の父、広忠は今川との関係を密にすべく竹千代を人質に出すことにしました。
しかし途中、田原状の城主・戸田康光の裏切りにより織田家に渡されてしまうことに。
小豆坂の戦いについてはこの記事も詳しいです。
小豆坂合戦ノ図 今川・松平連合軍VS織田信秀の大合戦が信長と濃姫の結婚につながる
その間に美濃の斎藤道三との関係を深め、信長と濃姫が婚姻。織田家が美濃攻略が盤石になろうとしている時でした。
天文17年(1548年)3月、信秀は本格的な三河侵略を狙うべく、岡崎城を攻めることになりました。
信広を先鋒とし4000余の兵を率いて安祥城から上和田に布陣し、今川軍も約1万の兵を太原雪斎を大将に2度めの小豆坂で合戦が勃発し、今川軍が勝利します。
翌年、今川家の太原雪斎が安祥城を攻略し、織田信広を生け捕りにし竹千代の人質交換を果たします。これにより、織田は完全に三河を撤退、今川の三河に勢力を伸ばすということになりました。
朝日新聞の記事「小豆坂 今川・織田、合戦回数は謎」から引用すると、以下のように書いてありました。1回だったのか2回だったのか、まだ謎の多い戦いのようです。
「当国東西鉾楯(ほこたて)」とあることから、この時期は小豆坂周辺で散発的な戦闘が繰り広げられたと推理する。「この地域は当時、最前線の紛争地帯。義元は、天文16年には小豆坂近くに作った拠点の城を出撃して手柄を立てた配下に感状も出している。1回なのか2回なのかもさることながら、天文17年の戦そのものについても検証が必要なのではないか。小豆坂は謎の多い戦いです」
第2次小豆坂の戦いの話は聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。
実は竹千代誘拐事件が絡み、織田軍と今川軍の三河攻略対決の決戦の地となった小豆坂とはどんなところなのか。
実際に行ってみました。
車のナビには「岡崎市戸崎町牛転38」と入れると付近まで行けます。
県道26号沿いなので、車の往来はかなり激しく駐車場はありません。
目印としては「高年者センター岡崎」の案内表示のすぐそばというのがわかりやすいかもしれません。
織田家と今川・松平軍の戦いになっただけでなく、桶狭間の戦い後、徳川家康が三河一向宗と戦った場所としても知られています。
なぜ小豆坂ばかりが戦場になるのか気になりました。
坂としての高低差が十分にあるところで、もしかするとここを通らないと尾張にも遠江にもいけないような場所だったのかもしれません。
こちらが史跡案内。
戦いの時に槍を立てたという伝説の松が。
古戦場向かいにあるスーパー「フィールニュース」の脇には、小豆坂の戦いの戦没者慰霊碑もあります。
ぜひチェックしてみてください。
住所:岡崎市戸崎町牛転38
*古戦場付近の大まかな住所。目印は「高年者センター岡崎」の看板。
駐車場はありません。
住所:愛知県岡崎市不吹町1−2 フィールニュースの敷地の脇
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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