愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2017.10.10
瀬名氏俊という名前、初めて耳にする方も多いのではないでしょうか。
瀬名氏は、今川家の身内とされているのは足利氏一門今川氏一派で初代が今川今川貞世(了俊)である「堀越氏」の分流の一族です。
瀬名氏は幼少の今川義元の父・氏親を補佐し、駿河今川氏の家臣として仕えています。
そのためにも出陣し、この「瀬名氏俊陣跡」で陣を張ったとされているのです。
幕山、高根山に陣を張り松井宗信と井伊直盛は戦死するなど、今川軍は織田軍によって壊滅状態になりました。
しかし瀬名氏は桶狭間山付近で陣を張っていましたが、なぜ戦死を免れたのでしょうか。
桶狭間古戦場保存会のホームページから引用します
瀬名氏俊は、桶狭間神明社へ戦勝を祈願し、戦評の松の下で軍議を開き、そして無事本陣設営を終えて大高城に向かいました。そのため桶狭間での戦死はまぬがれました。
家康と同じく、大高城の護衛にまわっていたので桶狭間山付近の襲撃に巻き込まれなかったということです。
桶狭間山と大高城の距離は車で行けばそこまで遠くはありませんが、当時は山。
大高城の戦いと、桶狭間山の戦いは分断されていたようなものだとすると、桶狭間方面で何があったかさえリアルタイムではわからなかった可能性が高いですね。
その後、戦死を免れた瀬名氏は後に今川家を離反し、徳川家の家臣として仕えます。
江戸時代以降は旗本の大名として家が残ったと言われています。
瀬名の名字で有名な人物といえば、徳川家康の正室「築山殿」が出てくると思います。
築山殿の父は関口親永(関口家の養子になったため)で、今川義元の妹を妻として迎えています。
陣跡は古戦場公園のすぐ近くにあります。
看板があるので、陣跡の石碑がすぐわかると思います。
ただし石碑はかなり小さめです。
桶狭間合戦で今川軍として参戦していたものの、たまたま大高城攻めを担当したことで戦死を免れた瀬名氏。
築山殿はその後は悲運を遂げていきますが、家としては長く続きます。
今川家のその後を味わう史跡として、こちらも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
住所:愛知県名古屋市緑区桶狭間332
<アクセス>
名鉄名古屋本線有松駅より 徒歩25分
もしくは
有松駅より 市バス有松町口無池行、緑巡回バス藤田保健衛生大学病院行きなど「桶狭間寺前」下車徒歩3分
<サイト>
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/06_senaujitoshi.html
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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