どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.06.07
斎藤道三に仕えた有力家臣である、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の西美濃三人衆。
道三死後は、織田信長に仕えることになりました。
中でも氏家卜全は西美濃三人衆の中でも最も有力と言われた武将で、長島の一向一揆の制圧時に殿を務め戦死しました。
その戦死した場所が、現在の海津市であるということで同市に供養塔があります。
氏家卜全ら、西美濃三人衆はもとは斎藤氏の家臣でした。
しかし斎藤道三が長良川の戦いで、三男・龍興と戦い破れた後、斎藤龍興を裏切り、信長の美濃攻めに加担することに。
信長の稲葉山城攻めの時には、人質を出すから取りに来てくれと伝え、服従の意志を見せます。
ちなみに人質を引き取る使者が到着する前に、金華山の南側の瑞龍寺山を占領。
岐阜城の城下町の井口に軍を進めて放火し、稲葉山城を包囲しての岐阜城を攻めを行います。
簡単に岐阜城が落ちたような書き方になってしまいましたが、困難を極めていてようやくの落城でした。
織田家臣となっても、信長からもともとの家臣団とわけ隔てなく扱ったそうです。
3人の中で一番大きな範囲を治めていた氏家卜全は、姉川の戦いなどでも功績をあげるなど活躍していました。
そして元亀2年の長島一向一揆の第1回めの鎮圧には、柴田勝家軍として参加。長島方の地形を利用したゲリラ作戦で手も足も出ず、退却を決意することになります。
そこで殿を務めることになった柴田勝家軍は、退却も一筋縄ではいかない状態に・・・。
柴田勝家は軍傷を負い、旗指し物まで奪われるほどの危険な状態だったそうです。
殿を氏家卜全と交代したものの、一向一揆軍に勝てるだけの軍がおらず太刀打ちできず、安江村(現海津市南濃町)にて戦死。氏家卜全をはじめ、多くの兵が命を落としました。
その供養塔が南濃町安江町にあります。
田んぼの脇にぽつんとあり、見逃しがちな場所です。
線路がすぐ上を通っており、養老線の電車が走っていきます。
マニアックな史跡かも知れませんが、柴田勝家好きとしてはその名前が書かれた史跡はチェックせずにはいられず行ってみました。
のどかな雰囲気なので、そんな壮絶な戦いがあったことが嘘のようです。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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