愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2019.07.15
徳川家康の三大危機のひとつと言われる三河一向一揆。この時、家康方に味方したお寺でもあります。徳川家康から「源」の一字を与えられて、妙源寺と改称した歴史あるお寺です。三河地方の真宗の道場で最も古い道場と言われていて、国・重要文化財にも指定された「妙源寺柳堂」があることでも有名です。
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妙源寺の歴史は古く、安藤氏が河内国安部野から三河国桑子に移住したとき、聖徳太子の木像を安置するためお堂を作ったことが始まりとされています。
松平氏より尊敬されていたお寺で、三河一向一揆(1563年~1564年)の際は、徳川家康が身を寄せ難を逃れました。そのことがきっかけで、徳川家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称したとのこと。さらに慶長8年(1602年)には、徳川家康より朱印地30石を拝領し、徳川家から庇護されてきた歴史があります。
国の重要文化財に指定された柳道は、太子堂とも呼ばれ、正嘉2年(1258)に建立されます。正和2年(1314)に再建され、現在は国の重要文化財となっています。
堂内には太子像を安置しています。この建物も非常に貴重なもので、入母屋造で屋根は本瓦型の板葺となっています。法寶物の展示は8月7、8日の虫干しのときに行われています。
お寺の裏のお墓は平岩親吉、本多忠豊、高木主水といった、徳川家を支えた家臣らのお墓があります。
本多忠豊は、安祥城合戦のときに身代わりとなって戦士した本多忠勝の祖父に当たる人物です。
平岩親吉は徳川家康から信頼を得ていた家臣で、名古屋城の初代城主である義直の後見人を努めた人物。
徳川信康に仕えていた平岩親吉は、織田信長の命で徳川信康は命を奪われることになった際、自分の首を差し出し織田信長に許しを請うたことでも知られています。
また、豊臣秀吉の伏見城築城の祝いのあと、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉に、祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えます。
その時、井伊直政と本多忠勝は家康には告げず、榊原康政は徳川家康に相談、ただ一人平岩親吉は黄金を受け取らず、使者に返し渡したという逸話もあります。
正直で私利私欲のない性格を非常に買っていた徳川家康は、八男・仙千代を養子に出したといわれています。その仙千代が没したため、9男の義直の後見人となりました。
三河一向一揆で苦労していた徳川家康、そしてそれを支えた家臣の歴史が感じられる場所。
8月7日・8日を狙えば、重要文化財の中の宝物を見ることができます。
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愛知県岡崎市大和町沓市場65
JR「西岡崎駅」下車徒歩5分
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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