100名城を巡る「彦根城」後編
2025.01.12
2023.07.15
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、織田信長による天下布武のシンボルとなった「安土城」です。
1576年に丹羽長秀を総奉行として築城開始、約3年をかけて完成。
しかし、1582年の本能寺の変後に天主は何らかの理由により焼失、
1585年に羽柴秀次が近江八幡城を築城する頃には廃城となりました。
絢爛豪華な「天主」があったことなど、過去にない特徴を備えた城であることから、
「近世城郭」の歴史はこの安土城から始まったといわれております。
2023年秋頃から、20年計画で「令和の大調査」が行われる予定とのことで、
現在見学できないエリアの整備にも期待したいところです。
織田信長の最高傑作!安土城の階段にある「石仏」って、やっぱりアレだよね?
・まずは遠目に山全体を見渡し、全体図を見て安土城の大きさを実感
・入口付近から「大手道」を見上げると、道の広さと階段の長さに圧倒されます
・長い階段の序盤あたり右側には「伝前田利家邸跡」の素晴らしい石垣が
・少し階段を登った左側には「伝羽柴秀吉邸跡」、こちらも見事な石垣が見られます
・入口からまっすぐ伸びていた階段を登りきると、お次は左にカーブし再び階段…
・ようやく平面部に出たと思いきや、黒金門跡まではさらに階段が
・こちらが「黒金門跡」、安土城中枢部への南東側入口です
武田家を滅亡に追い込んだ甲州征伐後、徳川家康は織田信長に招かれて安土城へ。
この時饗応(きょうおう)、つまり食事や酒を出してもてなす役を任されたのが明智光秀。
明智光秀はこの大役を果たすため、準備万端で徳川家康を待ち受けたと思われます。
しかし、織田信長が準備状況をチェックした際、台所から鼻をつく魚の腐臭が。
怒った織田信長は不手際を叱責し饗応役を解任、これを恨んだ明智光秀が行動を起こした…
というようなお話が『川角太閤記』などに書かれており、恥をかかされたり折檻されたりした
明智光秀が「怨恨」により本能寺の変を起こした、という説の出どころとなっております。
明智光秀がなぜ腐った魚に気付かなかったのか、周りの者も気付かなかったのか、
など突っ込みどころ満載のような気がしますが、この辺りはいまだに謎が多いところ。
真偽はともかく、この饗応があったとされる半月ほど後に本能寺の変が起こることとなります。
織田信長最期の地、本能寺跡や現在の本能寺をご紹介した記事はこちら
・黒金門跡を通過して右手を進み、石垣を堪能しながら「二の丸跡」へ
・二の丸跡にある「織田信長公本廟」は、羽柴秀吉が建立したといわれているそうな
・二の丸跡から本丸跡へ向かう道中左手には、石垣ファンにはたまらない「天主台石垣」が
・「本丸跡」から写真左側にある階段を登り、天主跡方面へ行きましょう
・いよいよ頂上「天主跡」へ到着、在りし日の天主はどのような姿だったのでしょうか
・天主跡から大手道まで戻り、最後に「總見寺本堂」へ
現在この仮本堂が建っている地は、「伝徳川家康邸跡」でもあるそうです
・ちなみに特別拝観日には呈茶も楽しめますので、事前に確認することをおススメします
「全力えびすくい」をしてまで織田信長へ恭順の意を示していた徳川家康でしたが、
その心の内では織田信長の排除を狙っている、と家臣たちに打ち明け終わった前回。
徳川家康が自分を恨んでいるのではないかと勘繰る織田信長、
織田信長に対して何やら含むところのありそうな羽柴秀吉、
徳川家康を安土城でもてなす役目に名乗りを上げた明智光秀…
一皮むけた(と思われる)徳川家康と、織田家の面々との駆け引きに注目ですね。
もうひとつ、本能寺の変を起こすに至った明智光秀の動機はどうするのか。
徳川家康黒幕説も考えられるので、どう描かれるのか楽しみにしたいと思います。
安土駅北口に立つ織田信長像
安土城
場所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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