武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2023年2月1日記事のため内容が古い可能性があります。

徳川家康と「今川館」|わからないことばかりでも興味津々

2023.02.01

駿府城

徳川家康は8歳から19歳という少年期、青年期を駿府で過ごしたといわれています。

しかし、どこで暮らしていたかということは諸説あり、はっきり史実としては残っていません。

 

「今川館」はどこにあったのか

徳川家康が人質として今川義元のもとで過ごしたのは駿府です。

文献によっては『駿府城』や『府中城』と記されたものもあるようですが、それは『今川館』とよばれた場所のことで、現在城跡がある『駿府城』ではありません。こちらは、徳川家康が築城しました。

駿府城をご紹介した「どこにいた家康」の記事はこちら

ボランテイアガイドさんと巡った駿府城の記事はこちら

徳川家康ゆかりのお茶が飲める「紅葉山庭園」をご紹介した記事はこちら

駿府城2

それでは今川館は、どのあたりにあったのかと推定されているのかというと、残念ながら確かなことはわかっていません。

けれど、

今川館」そのものは消滅。駿府城付近にあった説

という説がしっくりとくる気がしています。

 

今川館が駿府城の近くと考える理由

駿府城付近

 

「今川館」が駿府城付近と考える3点

今川館が駿府城付近にあったのではないかと考えるもとになるのは、次の3点からです。

①今川義元の嫡男であった氏真のときに、駿河国は甲斐の武田信玄に侵攻されましたが、武田信玄は駿河に入った際、今川館を使わなかったと考えられていること(武田信玄が焼いたという説もあり)。

②賤機山城は、武田信玄が利用していただろうと考えられること。

静岡浅間神社による御由緒の記載(以下、一部抜粋)を確認するとこのように記されています。

「徳川家康公は武田家攻略にあたり戦勝を祈願し、平治の後に必ず再建すべく祈誓を為して社殿を焼き払い、当社背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼした」

③今川館の遺構と思われるものが、駿府城の近くで発掘されたこと。

駿府城発掘調査

①から③を総合して考えると、駿府城付近にあったと考えるのが自然かなと。

 

徳川家康と「今川館」のまとめ

『どうする家康』では、今川義元像が、一般的なイメージとは違い、とても力強く描かれていますよね。

野村萬斎さんが演ずる今川義元が家康にたずねたこと、「徳をもって治めるは王道なり」。

これは孔子の統治論に由来する儒教の教えです。

安寧の世を築きあげる徳川家康の考えに重なりを感じますね。

萬斎さんの今川義元をみたら、私は今川館がどのようなものであったか、ものすごく興味がわきました。みなさんはいかがですか?

 

 

<徳川家康ゆかりの静岡浅間神社>

徳川家康が元服式を行った静岡浅間神社|烏帽子親は今川義元公

『どうする家康 静岡 大河ドラマ館』が1月27日オープン|徳川家康ゆかりの静岡浅間神社

 

 

 

駿府城公園(駿府城跡)へのアクセス

静岡市葵区駿府城公園1-1

 

JR静岡駅から徒歩約15分

静岡鉄道新静岡駅から徒歩約12分

 

駿府城公園全施設

(東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園)共通券

大人360円

こども120円

 

開館時間

午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)

 

休館日

月曜日(祝日、休日にあたる場合は休館振替なし)

年末年始(12月29日~1月3日)

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rico

教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。

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