三河岡崎城主・松平広忠と於大(尾張 緒川城主・水野忠政の娘)が婚姻する。
12月26日、松平広忠の嫡男として三河岡崎城にて誕生する(幼名、竹千代)。
父広忠、母於大を離縁する。
9月、父広忠が織田軍に降伏する。
織田家の人質となり、尾張に送られる。
11月上旬、今川軍が三河安城城を
攻略。城将の織田信広を捕虜にする。
11月8日、織田方と今川方の
人質交換により、駿河に送られる。
竹千代、三河吉田の
安久美神戸神明社に参詣する。
3月、竹千代元服。
今川義元から一字を与えられ
「松平次郎三郎元信」と名乗る。
今川家一族、関口氏純の娘・
瀬名姫(築山殿)と婚姻する。
徳川家康は、天文11年(1542)に三河岡崎城(愛知県岡崎市)の主・松平広忠(ひろただ)の嫡男として生まれ、竹千代(たけちよ)と名付けられた。当時の三河国(みかわのくに/愛知県東部)は一国を支配する戦国大名が存在せず、家康が生まれた安城松平家は西三河の国衆(くにしゅう)のひとつにすぎなかった。周辺には他の松平一族をはじめ、国衆が乱立。しかも西の尾張織田氏、東の駿河(するが)今川氏といった強大な戦国大名が三河に勢力を伸ばし、その脅威にさらされていた。そんな中、家康3歳の時、母・於大(おだい)の実家、緒川(おがわ)水野氏が織田方に寝返ったため、父・広忠は於大を離別。母と別れ、戦乱の渦に巻き込まれた幼い家康は、当初は織田氏の、続いて今川氏のもとで人質生活を余儀なくされた。竹千代(家康)は今川人質時代に元服し、今川義元から「元」の字を与えられ「元信(もとのぶ)」と名乗り、さらに義元の姪・瀬名(せな)と婚姻。今川家親類の青年武将に育っていった。