menu
< 前のページに戻る

名古屋城

徳川家康が天下普請で築いた東海道鎮護の要塞

大坂の豊臣家との戦いを念頭に、豊臣恩顧(とよとみおんこ)の大名へのにらみと東海道防衛を目的に徳川家康が天下普請(てんかぶしん)で築いた大城郭。「関ヶ原の戦い」後、家康は四男・松平忠吉(まつだいらただよし)を清須城主としたが、慶長12年(1607)に忠吉が病没したため、代わりに九男・義直(よしなお/後の尾張徳川家初代)を新たな城主に任じた。この当時、清須は尾張の首府として最大の城下町だったが、手狭なうえに周囲を河川に囲まれた清須城は水攻めの危険が指摘されていた。家康は「名古屋遷府令(なごやせんぷれい)」を命じ、清須城を廃して名古屋に新規築城を命じた。家康にとって集大成ともいえる築城だったため、家康は築城途中も度々訪れ検分している。
名古屋城は西方からの攻撃を厳重にした上で巨大な堀や高石垣をはじめ、隅櫓と多門櫓、枡形虎口(ますがたこぐち)と馬出しを組み合わせた鉄壁の造りで東海道鎮護(とうかいどうちんご)の要塞となった。また築城に合わせ清須城下町を丸ごと移転した「清須越」により城下町の建設も進められた。天守は慶長17年(1612)、本丸御殿は同20年(1615)に完成した。当初、惣構(そうがまえ)によって城下町まで囲い込む予定だったが、大坂の陣により豊臣家が滅亡したため惣構工事は中止となっている。
17世紀以降、徳川将軍家の江戸城、大坂城、駿府城の各城の天守が焼失したため、名古屋城天守は国内最大の天守となり、唯一金鯱をいただく城として特別視された。天守、本丸御殿など本丸の主要建築物は明治時代以降も保存され、旧国宝第1号に指定されていたが太平洋戦争の空襲により焼失。天守は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで外観復元され、本丸御殿は平成30年(2018)に木造復元が完成している。

戦国勝の一押しPOINT

大天守、小天守は耐震性の確保と施設の老朽化から木造復元が決定しているが、未だ文化庁の許可が得られず平成30年(2018)以来、内部は閉館したまま外観見学のみとなっている(2023年10月現在)。本丸御殿は江戸期の図面や昭和期の実測図、古写真により正確な復元が行われ将軍家を迎えるため尾張徳川家が心血を注いだ絢爛豪華な武家風書院造りの粋が堪能できる。また戦災を免れた三つの現存隅櫓、長大な高石垣や堀、国名勝指定の二の丸庭園なども見逃せない。

住所:名古屋市中区本丸1-1
アクセス:名古屋市営地下鉄名城線「名古屋城」駅下車、徒歩約5分または鶴舞線「浅間町」駅下車、徒歩約12分
駐車場:あり

近隣の史跡

マップから聖地を探す
エリア別・時代別 史跡一覧

徳川家康 新着記事 >

どこにいた家康 記事特集 >

家康公の生涯をたどる
徳川家康聖地巡礼TOP > 時代別史跡一覧 > 名古屋城