徳川家康の、生涯三大危機のひとつといわれる「三河一向一揆」の際、家康に味方した寺。三河で最も古い浄土真宗寺院のひとつとされ、当初は明眼寺(みょうげんじ)と称し、松平氏から崇敬されていた。室町時代、蓮如(れんにょ)の布教により、三河の真宗寺院は本願寺派へ改派する寺と高田派に留まった寺に分かれたが、明眼寺は高田派に留まり家康に味方した。この時、寺の本尊は源義経(みなもとのよしつね)の守り本尊の黒本尊(阿弥陀如来像)であった。家康がこの本尊に祈願し難を逃れたという。その後、家康はこの像を岡崎城に遷座し、陣中の守り本尊とした(後に江戸増上寺に奉納され今に伝わる)。この縁により家康から「源」の一字を与えられ、明眼寺から妙源寺に改称した。
境内にある柳堂(やなぎどう)は初期真宗寺院の建築様式を伝える優美な姿が特徴。聖徳太子像を安置しかつては太子堂と呼ばれていた。国の重要文化財に指定されている。また境内には寺を創建した安藤信平(あんどうのぶひら)の子孫で家康に仕えた安藤直次(あんどうなおつぐ)をはじめ、本多忠勝の祖父・忠豊(ただとよ)、父・忠高(ただたか)、家康家臣・平岩親吉(ひらいわちかよし)、長坂血槍九郎(ながさかちやりくろう)など数多くの三河武士の墓がある。
住所:岡崎市大和町沓市場65
アクセス:JR東海道本線「西岡崎」駅、徒歩5分
駐車場:あり