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吉田城

徳川家康の重臣・酒井忠次が攻略した城

永禄8年(1565)、三河平定を目指す徳川家康(当時は松平元康)が重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)に攻略させた城。築城当初は今橋城(いまはしじょう)と呼ばれたが、やがて地名とともに名称も吉田城に改められた。天文15年(1546)、三河支配を目指した今川義元(いまがわよしもと)が攻略し城代を置いたが、忠次が兵糧攻めで無血開城させ、今川勢を一掃した。その功績により忠次は、家康から東三河の旗頭(はたがしら)として吉田城を与えられた。忠次は、城の拡張・整備した他、豊川(とよがわ)に土橋を掛け、治水工事など城下の発展にも尽力した。天正3年(1575)5月、三河に侵攻した武田勝頼(たけだかつより)軍に対し、忠次は救援に来た家康軍を城に収容し攻撃を防いだ。天正18年(1590)家康の関東移封後、吉田城は豊臣秀吉の命で池田輝政(いけだてるまさ)に与えられた。輝政により城は近世城郭に大改修を施され、さらに江戸時代に入り譜代(ふだい)大名が入れ替わり改修が行われた。江戸時代は吉田城は惣構(そうがまえ)を備えていたため、愛知県内では岡崎城に次ぐ広大な城域を有していた。明治期の廃城令、旧陸軍の駐屯地を経て戦後は本丸、二の丸など主要部分が豊橋公園に整備され、現在に至っている。

戦国勝の一押しPOINT

豊川に面した本丸北側には、かつては櫓が立ち並んだが明治期に破却された。昭和29年(1954)に鉄櫓(くろがねやぐら)のみが模擬再建され、内部は吉田城の歴史を伝える歴史資料館になっている。鉄櫓下の高石垣は池田輝政時代のものだが、階段付近には名古屋城築城時の残石を転用した刻印石垣を確認できる。豊川越しに見ると重層的な石垣群が今も往時の威容を伝える。

住所:豊橋市今橋町3(豊橋公園)
アクセス:豊橋駅前から豊橋鉄道市内線「市役所前」電停または「豊橋公園前」電停、下車約5分
駐車場:あり

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