2月12日、従一位征夷大将軍に叙任される。
7月28日、豊臣秀頼のもとに孫娘の千姫が輿入れさせる。
4月16日、征夷大将軍を辞す。
嫡男秀忠が征夷大将軍に叙任される。
以降、家康は「大御所」と称される。
2月、天下普請で駿河駿府城を
大改修を開始する。
3月5日、四男の松平忠吉が死去する。
4月、九男の義直を尾張清須城に
転封させる。
西尾の寺津八幡社の本殿を再興する。
11月、九男の義直を従え尾張清須城を訪れる。尾張名古屋に築城を決定する(名古屋遷府令)。
6月3日、天下普請で尾張名古屋城の築城を開始する。清須から町ごと移転し、名古屋城下町を建設する(清須越)。
3月28日、山城二条城で豊臣秀頼と会見する。
名古屋城下町の建設がつづく。
春、名古屋と岡崎を結ぶ街道(岡崎街道/駿河町街道)を開設し、尾張平針に宿場を設置する。
7月26日、山城方広寺の鐘銘事件が起こる。豊臣家と関係悪化。
11月中旬、徳川軍が大坂城を攻囲する(大坂冬の陣)。
12月20日、豊臣家と講和する。
4月12日、尾張名古屋城にて義直と春姫の婚儀に臨席する。
5月5日、山城二条城から大阪方面へ出陣する。
5月7日、摂津大坂城を総攻撃する。
豊臣氏を滅ぼす(大坂夏の陣)。
1月21日、駿河・田中で鷹狩りに出、発病する。
4月17日、駿河駿府城にて死去。
家康の遺品が尾張、紀伊、水戸の御三家に分与される。
2月21日、朝廷より、「東照大権現」の神号が授与される。
4月17日、家康一周忌にあわせ、日光東照宮へ改葬される。
将軍となった家康は、2年後の慶長10年(1605)に嫡男秀忠に将軍職に譲った。これにより徳川家が天下人の家として将軍職を世襲することを世間に知らしめた。大御所となった家康は、駿府城(静岡県静岡市)を本拠に引き続き国内の国政を主導した。一方、「関ヶ原の戦い」で家康は、関東から東海、近江(滋賀県)、越前(福井県)に至る地域を徳川領国として子息や譜代(ふだい)大名らを配置した。さらに家康は、豊臣氏や西国大名に備え大坂城周辺や主要街道沿いに天下普請(てんかぶしん)による城郭網を築いた。中でも名古屋城(愛知県名古屋市)は、最新の築城技術を結集した家康の城の集大成となった。家康は、孫娘・千姫(せんひめ)を豊臣秀頼(ひでより)に嫁がせるなど豊臣家を存続させようとしたが、その努力もむなしく「大坂の陣」が起こり、慶長20年(1615)に豊臣氏を滅亡させた。豊臣氏滅亡後、家康は武家、公家、寺社に対し諸法度を出させ、ようやく表舞台から隠退。徳川による泰平の世を実現した上で元和2年(1616)4月に75年の生涯を終えた。