正月、名字を「徳川」に改姓する。
5月、嫡男・信康と織田信長の娘・
五徳が婚姻する。
12月15日、武田信玄軍の駿河国
侵攻を受け、遠江国へ侵攻する。
6月、遠江浜松城を築く(9月に入城)。
6月28日、織田信長に従い、
朝倉・浅井連合軍と戦い、勝利する(姉川の戦い)。
11月30日、武田信玄軍により
遠江二俣城が攻略される。
12月22日、遠江三方ヶ原において
武田信玄軍に敗れる
(三方ヶ原の戦い) 。
4月12日、武田信玄死去。
武田軍が徳川領内から撤退する。
2月、二男於義伊(後の結城秀康)が
誕生する。
6月17日、武田勝頼軍により
遠江高天神城が攻略される。
4月末、武田勝頼軍が三河吉田城を攻撃。
吉田城で籠城する。
5月11日、武田勝頼軍が三河長篠城を攻囲する。
5月18日、織田信長・徳川家康軍が三河設楽原に着陣。
5月21日、信長とともに設楽原で武田勝頼軍と戦い、勝利する(長篠・設楽原の戦い) 。
4月7日、三男長丸(後の二代将軍徳川秀忠)が誕生する。
8月4日、嫡男信康を三河大浜に追放する。
8月29日、正妻・築山殿の殺害する。
9月15日、長男・信康を切腹させる。
3月11日、武田攻めの功績により織田信長より駿河国を拝領する。
5月15日、駿河国拝領の御礼のため、近江安土城へ参上する。
6月 2日、織田信長が明智光秀の謀反により本能寺で自害(本能寺の変)。
本能寺の変を受け、伊賀山中から伊勢、三河へ向かう(伊賀越え)。
6月4日、三河大浜から岡崎へ帰還する。
6月12日、羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破る(山崎の戦い)。
7月3日、遠江浜松城を出陣し甲斐国へ侵攻する。
今川領の遠江国(とおとうみのくに/静岡県西部)を制した家康は、居城を浜松城(静岡県浜松市)に移した。しかし、今川領侵攻をめぐり、甲斐武田氏と対立。家康はその後、「三方ヶ原の戦い」(静岡県浜松市)や「長篠・設楽原の戦い」(愛知県新城市)など武田氏との戦いに明け暮れた。その過程で、武田氏と内通した正室・築山殿(つきやまどの/瀬名)、嫡男・信康をやむなく殺害。しかし、信長とともに宿敵武田氏を滅亡させ、駿河国(するがのくに/静岡県東部)を拝領(はいりょう)し、三河・遠江・駿河の三ヵ国を支配する大名となった。天正10年(1582)本能寺の変の報を受けた家康は、大坂堺(堺市)から急遽伊賀越えをし、海路三河大浜(愛知県碧南市)に入り、帰国した。家康はすぐさま旧武田領の甲斐国(かいのくに/山梨県)・信濃国(しなのくに/長野県)の攻略に乗り出した。今川・武田旧臣を配下に加えた家康は、相模(さがみ)北条氏との抗争を制し、甲斐・信濃領国を獲得し、五ヵ国を支配する大大名となった。