2月10日、豊臣軍の小田原攻めに従い、駿河駿府城を出陣する(小田原合戦)。
7月13日、豊臣秀吉から関東へ転封を命じられる。
8月1日、 武蔵江戸城に入城する。
3月、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、
肥前名護屋城に到着する
(~翌年8月まで在陣)。
8月上旬、秀吉の求めにより、
五大老に加わる。
8月17日、山城伏見城にて豊臣秀吉が死去する。
閏3月3日、加藤清正ら七武将が
石田三成を襲撃する。
三成を保護し、両者を仲裁する。
9月26日、摂津大坂城
西の丸に入る。
6月18日、会津上杉討伐のため、山城伏見城を出陣する。
6月20日、伊勢白子湊から三河吉田湊に入る
8月23日、家康方の先手軍が美濃岐阜城を攻略する。
9月1日、武蔵江戸城を出陣する。
9月11日、尾張清須城に入城する。
9月15日、家康率いる東軍が美濃関ヶ原にて石田三成率いる西軍を打ち破る(関ヶ原の戦い)。
9月27日、摂津大坂城に入城し、豊臣秀頼に拝謁する。
正月、江戸から京までの東海道を伝馬制を整え、宿駅を定める。
3月23日、山城伏見城に入城し城の再建に着手する。
8月28日、生母於大が山城 伏見城で死去する。
秀吉の義弟となった家康は、豊臣政権の関東を含めた東国統治の要を担うため、関東に移封を命じられ、居城を江戸城に移した。関東・奥羽(おうう/東北地方)の安定に尽力した家康は、豊臣政権内で最有力の親類大名となり、家格や官位も上昇した。これに伴い京、伏見での滞在が多くなっていった。慶長3年(1598)8月、秀吉は、家康ら有力大名5名による五大老と石田三成ら側近5名による五奉行に、幼い秀頼(ひでより)の行く末と政権の運営を託し、病没した。しかし、秀吉死後に家康と反家康派の間で政争がはじまり、全国の大名を巻き込み両者は対立した。やがて反家康派が挙兵したが、家康はこれを美濃・関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で打ち破った(「関ヶ原の戦い」)。その後、天下人の声望の高まりとともに唯一の実力者となった家康は豊臣政権から独立。慶長8年(1603)2月に征夷大将軍に任官。名実ともに天下人となり、江戸に幕府を開いた。