2月5日、今川義元の命で
三河寺部城を攻めで初陣を飾る。
7月以降
実名を「元康」と改める。
3月6日、長男・竹千代(後の
松平信康)が駿府で誕生する。
5月12日、今川義元の尾張攻めに
従い駿府を出陣する。
5月18日、尾張大高城に
兵糧入れを果たす。
織田軍の丸根砦を攻め落とす。
5月19日、尾張桶狭間で今川義元が
織田信長軍に討たれる(桶狭間の戦い)。
義元戦死を受け、大高城から退却。
岡崎へ向かう。
5月20日、三河大樹寺に入る。
5月23日、10年ぶりに
三河岡崎城に帰城する。
6月以降、父の菩提を弔うため寺を
建立する。
2月、伯父の水野信元の仲介で織田信長と同盟を結ぶ。
9月、三河藤波畷の戦いで東条城主・吉良義昭軍に勝利する。
2月、三河上ノ郷城を攻め、城主鵜殿氏の子息を人質にする。
春、今川家と人質交換を行い正室の瀬名姫(築山殿)、嫡男竹千代を取り戻す。
祖父清康、叔母の菩提のため随念寺を建立する。
7月、実名を元康から「家康」に改める。
12月、三河一向一揆が蜂起する。
2月、三河一向一揆と和睦する。
6月、今川軍に包囲された三河一宮砦を救援する。
3月、三河吉田城、田原城を攻略し、東三河支配を進める。
2月12日、開運祈願のため菅生神社の社殿を再建する。
春、開運祈願のため上野国・新田より新田神社を岡崎城内に勧請する。
5月、三河牛久保城の牧野氏が帰順し、三河国を統一する。
12月29日、従五位下三河守に叙任される。
叙任を祝い伊賀八幡宮の社殿を造営する。
松平元信(家康)は、17歳で初陣を果たし名を「元康(もとやす)」に改めた。永禄3年(1560)、元康は義元率いる今川軍の武将として尾張大高城(愛知県名古屋市)に兵糧(ひょうろう)を運び入れたが、「桶狭間の戦い」で義元が戦死。戦地を脱し、岡崎城(愛知県岡崎市)に戻った元康は、しばらく今川方に留まったもののやがて織田信長と同盟を結んだ。これを機に今川氏と決別し、「元」の字を捨て「家康」と名乗り、三河国(みかわのくに/愛知県東部)の平定に乗り出した。三河一向一揆との戦いや今川氏との戦いの末、三河平定を成し遂げた家康は、これらの戦いを通じ、家臣団を結束させ三河各地の国衆(くにしゅう)を従えた。さらに家康は、その立場を正当化するため名字を「徳川」に改姓。朝廷に叙位・任官(じょい・にんかん)を求めた。翌年1月に従五位下(じゅごいのげ)三河守の叙位・任官が認められ、ここに戦国大名徳川家康が誕生した。さらに同年5月には嫡男・信康(のぶやす)と信長娘・五徳(ごとく)が婚約し、信長との同盟の絆を深めた。