3月28日、尾張小牧山城に修築し羽柴秀吉軍と対峙する。(小牧・長久手の戦い)
4月7日、小牧山城を出撃する。
4月9日、尾張長久手で秀吉方の池田恒興・森長可軍に勝利する。
6月22日、秀吉軍に占拠された尾張蟹江城を奪還する。
11月12日、織田信雄が羽柴秀吉と単独講和。それを受け家康も秀吉と講和し帰国する。
7月11日、秀吉が従一位関白に叙任される。朝廷より豊臣姓を賜る。
11月13日、重臣の石川数正が秀吉のもとに出奔する。
11月29日、天正大地震が起こる。 秀吉、家康征伐を中止。
1月27日、豊臣秀吉と和睦する。
5月14日、秀吉の妹・朝日(旭)姫と
婚姻する。
10月27日、摂津大坂城で
秀吉に臣従を誓う。
徳川家康が、五ヵ国に領国を拡大したころ、畿内では羽柴(はしば)秀吉が、信長後継者として天下人の地位を固めていた。秀吉に地位を脅かされた信長二男の織田信雄(のぶかつ)から助けを求められた家康は、秀吉との対決に至った(「小牧・長久手の戦い」)。家康は小牧山城の対陣(愛知県小牧市)や長久手の戦い(愛知県長久手市)で名を上げたが、全体では終始秀吉軍が優勢で、信雄・家康連合軍は敗れた。天正13年(1585)に秀吉は関白に任官。朝廷から豊臣(とよとみ)姓を賜り天下人の立場を確固たるものとした。これに対し、家康は秀吉に臣下の礼をとらず強硬姿勢を貫いていた。しかし、家臣や国衆(くにしゅう)の離反が相次ぎ、秀吉の要請を受け入れ、秀吉に臣従した。秀吉は家康を取り込むため、妹・朝日姫を家康に嫁がせ、義弟とした。豊臣大名となった家康は、秀吉の天下統一事業に従い、小田原の北条氏滅亡後に関東移封を命じられた。